小野寺 寛

(1)網走における先住民族の伝承

米村喜男衞
 網走地方には、先住民族であるアイヌの人たちの伝承や伝説がいくつか残されている。『網走市史』に採録されているものだけでも、能取地区と常呂町との境界あたりで起きたアイヌ人同士の争いを伝える「メチヤッコマナイの伝説」、全世界の魚は能取湖から散らばったとする「ノトロ湖の伝説」、男剣と女剣という名宝剣の働きを伝える「ペシユイの伝説」、網走川の改称由来を伝える美幌アイヌ人の「チパシリ伝説」、それに「アヨシマイの伝説」などである。また、ウバラナイ(卯原内地区)とソラウシナイ(平和地区)との争いを鎮めた純愛の伝承を『卯原内第三部落史』が伝えている。
 さらに、これら既に知られているもの以外にも、公表されずにひそかに語られていたアイヌの人たちの伝承があったのであろう。それを素材としてつなぎ合わせ、物語化した民話劇が大正時代に発表されていた。それは同11年(1922)、米村喜男衞(1892〜1981)によって創作されたとされる「チパシリ」であり、早くもその年には初演されたという。

(2)鈴蘭童話会と「チパシリ」創作の舞台

 大正11年に創作されたとされる「チパシリ」のオリジナル稿本や、それを舞台化したときの脚本など、関係資料は残念ながら今日まで発見されていない。おそらくガリ版で僅少部数しか印刷されなかったであろうから、初演後散逸してしまったものと思われる。ところが、昭和60年(1985)に至って発刊された米村喜男衞遺稿『モヨロ悠遠』には、「凋落」や「能取の熊」とともに同名の作品が収載されている。
モヨロ悠遠
 この「チパシリ」は2幕4場からなる場面で構成され、明らかに舞台化を想定した戯曲形式の作品となっており、末尾には1952・5・23の日付がある。これによれば、創作時から30年を経過して再稿を執筆し、私家版ではあるが刊本となって日の目を見たのはさらに30余年後のことで、じつに60余年間も幻の作品だったことになる。ただし、この再稿した「チパシリ」が、創作されたときの原文と同一であるかどうかは確かめようがなかった。また、この日付は再稿執筆の動機を示唆しているのであるが、そのいきさつはのちに述べる。
 では同書からそのあらすじを紹介しよう。

 約百年前、知人岬の海岸近くにエパンロとロセトの母娘が住んでいた。コタンの人たちは平和に暮らし、熊まつりは年々賑やかになっていった。ロセトは声がよく、踊りもうまくて人々の評判になっていたのである。
 ロセトにはシェマカという婚約者がいた。ところが熊まつりの日に、そのことを知らない村長の息子ノッカから求婚されたのである。
 困り果てた母娘は、コタンの長老で予言者のオンネエカシに相談した。オンネエカシはカムイチカプが鳴いたことによって、コタンに何か大事が起きそうな予感がしていた。オンネエカシは神々に祈るしかなかった。
 しかし、ロセトは苦しみ胸が張り裂けそうになるばかりであった。どちらを選んでも両人は競うであろうし、そうなればコタンは暗黒になり、人々は苦しむことになるであろうからと。
 ロセトは決心した。私がこの世から消え去ればいいのだ。コタンの人たちはロセトを探したが、ついに見つからなかった。
 一羽の白い鳥が沖のワタラをチパシリ、チパシリと鳴いて飛んでいく。オンネエカシはいう。あれがロセトなのだ。この地を今からチパシリと名づけよう。帽子岩の回りを白い鳥は飛んでいる。
(『モヨロ悠遠』所収同名の作品を要約)

 この「チパシリ」は、高田紅郎(太郎)の脚本と米村自身の演出によって、その年演芸館(のちの歌舞伎座。現存しない)の舞台で発表された。上演の目的は、青年団の基金募集だったとされているのであるが、観劇した町民は感動のあまり涙を流したと伝えられている。
米村喜男衞の理髪店
 大正時代に入ると、開通した鉄道によって一般の來住者や町郊外への開拓入植者が激増した。網走町は人口が急増し、第2次発展期を迎えていたのである。米村も同2年(1913)に先史時代の研究をするため來網しており、そのとき、最寄村の網走川河口左岸において、広範囲に点在する遺跡群(のちに「モヨロ貝塚」と命名)を確認した。これを機に先住民族を研究しようと町内に腰を落ち着けて理髪店を開業した米村は、本業のかたわら同好者を募って網走史辿会を結成したのが同6年(1917)のことであった。
鈴蘭童話会「モヨロ貝塚」
 網走史辿会における調査研究の成果が「児童生徒たちの教育上、郷土愛を鼓舞するためにも、趣味を高めるためにも、漸く開拓されつつあったこの地に最も大切なことであることに気づき」(『モヨロ貝塚』)、それを郷土振興の生きた教材として活かすため、同会のなかに鈴蘭童話会を設けたのが同11年(1922)のことであった。
 同年に開校した網走中学校(旧制)の教師小梁川次郎を指導者に迎えた同会では、先住 民族の伝承や開拓先達者たちから聞いたエピソードなどを組み合わせて民話を創作し、そ れを遊戯化したり、また児童劇に仕立て、放課後女子尋常高等小学校(当時の通称は「女 子校」)高学年から選抜した子女を永専寺に集めて教え、遊戯会を開いたり父母にも発表した。さらに他校を訪問してその舞台でも演じ、在校児童のみならず、その地域の住民にも公開したという。
 郷土研究の成果を地域社会に還元するという目的とその活動が、すぐれて教育的であり えたのは会員の多数が学校の教師だったからであり、しかも、学校教育の現場を離れた市井の一隅で誕生し、そして育まれたのであった。
 米村は後年、「チパシリ」執筆の動機として地元紙に、「当時は郷土の振興運動が起こっていたので、何か郷土に愛着を感じるものが欲しいというので書いた」(「網走新聞」)と語っている。
 「チパシリ」は、こうした鈴蘭童話会の活動を通じて誕生した創作民話劇だった。また、のちに起こる愛郷運動を先取りしたともいえる同会の活動は、來住者にとって第2の故郷となるべき網走の故事を教え、さらに愛着を深めさせるという意味で、子女の遊びを超えた人づくりだったのであり、社会教育の実践でもあった。今日的にいうならば、ふるさとの発見であり、網走文化の創造だったのである。これらの活動を伝える記録が発見されていないこともあって、その全容を知ることができないのは残念というほかはないが、大正末期において、このような地に着いた教育活動が継続して行なわれていた事実は、網走の文化史上特筆されるべきであろう。

(3)「チパシリ」の原型をさぐる

 米村は、「この地方に伝わる伝説をもとにまとめた」(『モヨロ悠遠』)と語っており、そのオリジナルは、「三十年ほど前(別の紙上では大正10年ころと語っている。)、モヨロ村生まれのアイヌ人古老レヌエケシ(当時70歳)から、網走地方に古くから伝わるチパシリの伝説を聞き、芝居に仕組んだもの」(「北海道新聞」1953)だという。市井の考古学者でもあった米村は、民俗や史跡調査の過程で当時のアイヌ人の古老から伝承や昔話を聞き取って、それを採録しておいたものと思われ、したがって、まったくのフイクションというわけではない。
 ところで、この「チパシリ」には別個の3話の伝承が包含されているように思える。そ れは、コタンにわざわいをもたらす求愛事件を発端とし、ヒロインが自ら死を選んでコタ ンを救う悲話と、その娘が白い鳥に化身し、さらに、その鳥の鳴き声のチパシリがコタン の地名起源となったというものである。
 まず第1点はコタンの娘の入水事件である。これがいつ、誰によって伝えられたのか、いわゆる学術的な記録は残されていない。しかしこの事件が網走地方のアイヌの人々の伝承として存在した蓋然性は、遡って享和元年(1801)の斜里神社の奉歌献額に求めることができる。
 同年幕府の蝦夷地御用掛だった松平信濃守忠明一行がオホーツク海岸を巡察したとき、 道中の地名とその地の故事などを詠みこんだ歌36首を「奉献雑題道祓歌枕」という額 にして斜里神社に奉納した。網走周辺では、「打はえて/海原かけてノトロ崎/かよふ汐 路の八百萬まで」(能取岬)、「阿端尻の/沖の小島に船寄る/浮かれつ恋の跡ぞ白波」(網走)、「吹く風に/沖のあさ瀬を打越えて/白ら波立やヲシヨフの浜」(鱒浦)の3首があり、網走周辺の風物や故事を巧みに詠み込んだ、最初の文芸作品とみることができる。
 このうち、網走を詠んだ歌のなかの謎めいた部分、すなわち「浮れつ恋の跡ぞ」には、 コタンに生きた人たちの男女の葛藤、つまり恋の結末が詠み込まれており、情景のみを詠 んだほかの2首とは明らかに歌趣が異なる。また36首のなかには、恋という字を詠み込んだ歌がほかに4首あるが、いずれも男女のなまなましい情念を詠み込んだものではない。
棚川音一
『奉献雑題道祓歌枕考』
 これにはコタンの秘話が隠されているのではないか、といった疑問があったのであるが『奉献雑題道祓歌枕考』(1992)で棚川音一は、歌人のもつ感性でその謎を解いたのである。さきの「チパシリ」の悲話とこの1首を結び付け、「…神の岩といわれる帽子岩に船が着いた。そのあたりの白い波を見るにつけても、二人の青年の後を追って身を投げたという、娘が哀れに思えてならない。」という歌意を与えた。著者の記憶に「チパシリ」のストリーがあったからこそ、その謎解きができたというべきであろう。
 松平信濃守忠明一行にこれを伝えたのは、当時の網走に駐在していた松前藩足軽の佐藤 与惣次だったのであろう。長旅の無聊をなぐさめる座興ばなしだったのかもしれない。ア イヌ民族に対する当時の和人の認識を知る史料の存在は調べていないが、おそらく侮蔑的 なものであったことが想像できる。そうだとすれば、伝え聞いた一行が驚くほどの出来事 だったにちがいない。「浮かれつ恋」を我流に解釈すれば、恋に浮かれたという意味のほかに、身を投げたアイヌ人の娘が浮いていたという二重の意味が込められているのではないかと思われる。
 「チパシリ」に登場する人名のうち、〈ノッカ〉と〈シェマカ〉は地名から採った創作 上の人物である。すなわち、〈ノッカ〉はシレト(知人岬)の基部(現裁判所辺り)の丘のコタン名であり、江戸時代から明治初年までアイヌ人の集落があって、〈クツコレ〉(別説ではクツマン)を家長とする1族が住んでいた。『網走市史上巻』によれば、明治時代の初めに日本人式の姓名をつけたとき、岬の上の野原にいるというので上野という姓になったという。斜里方向へ旅するときは、必ずここを通るので「ノッカ越え」といわれた。また〈シェマカ〉とは、シレト岬の崖下海岸の玉石原のことである。ここに住んでいた1族には、山の下に住むというので山下姓になったという。ヒロインの〈ロセト〉や〈オンネエカシ〉そのほかの人名の出自は不明である。
 この出来事は、この地のコタンでいつ起ったものであろうか、「チパシリ」では約100年前としている。享和元年は、米村が創作した年から遡ること121年前であるが、少なくとも同年よりは以前の、そう遠くない時代の出来事だったのではないだろうか。足軽の佐藤与惣次が見聞したものであろう。一方網走アイヌの人たちは、この出来事を大正の時代まで記憶していて米村に伝えたのであろう。では、この原型はどのようなものであったのか。あるいは、2人の若者に求婚された娘が、思い悩んだ末に網走川河口に身を投げたという、単純な出来事だったのかもしれない。
 第2点の人間が鳥に化身する伝承の原型は、美幌のアイヌ人が伝えた「チパシリ伝説」にある。すなわち、踊っていた大勢の者が突然鳥の群れに変じて舞い上がり、チパシリ!チパシリ!と鳴きながら網走川を河口の方へ飛んでいった。この鳥の群れはパエカイ・カムイ(旅行する神々)といって疱瘡神の群れだったというのである。おそらく、米村は美幌アイヌの人たちから聞き採ったものであろう。
 さらに第3点の鳥やその鳴き声を網走川の改称起源とするアイヌ人の伝承は、この「チパシリ伝説」に見られるが、これが網走の地名起源になったとする伝承は、松浦武四郎や永田方正によっても採録されている。松浦は明治2年(1869)、『郡名之儀ニ付申上候書付』において「…又一説、チハシリト云テ大ナル鳥カ鳴来リシト言故事モアリ、当時其鳥ノ事ヲ言ツタフ也」としている。また後年に至って、松浦自身の著になる『戊午東西蝦夷山川地理取調日誌』や『西蝦夷日誌』が発見されたが、そのなかにも当然のことながら、同様趣旨の地名起源説が詳しく記述されている。一方、永田も同24年(1891)、『北海道蝦夷語地名解』において、「…一鳥アリ“チパシリ”“チパシリ”と鳴キテ飛ブヲ以テ地ニ名クト」と述べている。
 これらの記述を見ても、こういった伝承が存在したことは疑いないが、米村は永田の著書の記述を強く意識し、網走の地名起源説の根拠をこれに求めたのではないだろうか。

(4)「チパシリ」の構造

 「チパシリ」を構成するアイヌ伝承の原型は、先に述べたように3話ある。これが正し いとすれば、このうち米村がもっとも強調したかったことは、網走の地名起源伝承であろ う。すなわち、白い鳥がチパシリ!チパシリ!と鳴いて飛んだので、それをもってこの地 のコタン名とするエピローグの部分である。どうやらこの結末が先にあって、次はこの白 い鳥に化身する人物、つまりヒロインの創作であった。これには、いわゆる三角関係に悩んだ末に網走川河口に身を投げたアイヌ人の娘の伝承があって、その娘に〈ロセト〉という名を与えたのである。
 〈ロセト〉には既に婚約した若者がいた。それは海岸沿いの同じ集落に住む〈シェマカ〉であり、そのことを知らずに求婚した若者は、その上の丘に住む村長(むらおさ)の息子〈ノッカ〉であった。
 〈ロセト〉には自ら姿を隠さなければならないほどの動機が必要となった。それは、異なる集落の間で娘を巡る争いが起きれば、民族の平和が乱れ人びとが苦しむというコタンのいい伝えを想定し、かつこれを物語の伏線としたのである。コタンを救うためには、その当事者が自らすすんで「人身御供」となるか、または集団の意志としての「供犠」制がアイヌ民族の文化として存在したかどうかは不明であるが、それを長老〈オンネエカシ〉の不吉な予感と重ね、〈ロセト〉に人身御供ともいうべき行動をとらせたのであろう。そうだとして、観客が感涙したのは、コタンという社会集団の危機を招く出来事に際して、当事者である一人の娘の犠牲的行動がそれを救ったという物語の悲劇性が、当時の日本人の国民性に強く訴えたのであった。また当時の町民は、コタンをこの網走の古代に置き換え、その地名起源を伝えるロマンに感動したのかもしれない。

(5)『網走町小学郷土読本』とその時代

 この「チパシリ」は、以後米村の手を離れて物語としての完成度を高めていくことになる。
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北見郷土研究会名簿「郷土研究」
 先に述べたように、網走町では大正末期から鈴蘭童話会が活動しており、また遠軽地方の教師集団が結成した山彦童話会が、伝統童話と北海道開拓民話を題材にした児童劇を創作して町内の各小学校を訪問し、校内で公開するなどの活動を展開していた。やがてこの両童話会が合同して管内の小学校と交流することになるのであるが、これらの活動を通じて広域的な郷土研究の機運が高まったという。網走史辿会が発展的に解散して、網走支庁管内を研究領域とした北見郷土研究会が結成されたのが昭和3年(1928)のことであり、米村はその活動の中心となる幹事長に就任したのであった。やがてこの活動は昭和11年(1936)に至り、北見郷土館(現網走市立郷土博物館)の開設となって結実していく。
網走町小学郷土読本
 昭和初期のいわゆる昭和恐慌と、それに凶作、凶漁の連続で農山漁村地域は疲弊を極わめていた。こうした時代にあって、各町村では逼迫する財政を建て直すため経済更生計画を樹て、これにもとづいて自主再建の途を探ろうとしたのである。一方こういった動きに合わせて文化的な側面では、それぞれの地域の特性を見出し、これを郷土の精神的な支えとして住民に認識させる愛郷運動が提唱されたのであった。
 こうした運動のさなかの昭和12年(1937)には、既に刊行されていた『北海道小学郷土読本』に倣らって『網走町小学郷土読本』が刊行された。そのなかには、摂政宮殿下(のちの昭和天皇)行啓の光栄とか、開拓初期の来住者の逸話や名所の由来、「郷土いろはかるた」のほか名産品などとともに「チパシリ」の1編が巻頭に収められたのである。
千葉七郎
 この郷土読本は、愛郷精神を初等教育の段階からかん養しようとしたものだったといわれ、町当局の意向を受けた網走町教育研究会郷土研究部の編著になるものであった。郷土研究部とは、先に述べた北見郷土研究会とかかわりをもっていた千葉七郎(1904〜86、当時女子校訓導)と、そのほか数名の教師からなる集団であった。こういった趣旨にかなう題材の1つとして、地名起源を伝える「チパシリ」が真っ先に選ばれたのであろう。以後戦前の町内各小学校で副読本に採用され、高学年の綴り方の教科で使用したとされているのであるが、全編を通して町勢を内外に誇示するといった意図が感じられ、今日的にいえば網走の「CI(コミュニティ・アイデンティティ)」運動のようなものであったと思われる。
 一方国情は軍国主義へと傾斜を強めていた。昭和10年(1935)には、『天皇機関説』など美濃部達吉の著書が発禁となり、翌年にはいわゆる2・26事件が起き、12年には中国への侵攻を意図した事件を発端として、日中戦争へと拡大していく時期であった。国防という名がついた団体が生まれ、出征兵士へ千人針や慰問袋を贈る動きが各地に広がるなど、国民の間にも戦争気分があふれていった。やがて天皇を神格化して現人神(あらひとがみ)と崇め、これを絶対視した国家秩序を強制する軍国教育が強化されていった。これには、少国民とか皇国に殉じる臣民を育てるといったねらいがあったとされ、国家権力によるマインドコントロールが、刑罰を担保として行なわれる暗い時代への入り口でもあった。
 ところでこの副読本版「チパシリ」は、米村の原作とはいささか違ったものだった。それは、登場する主要人物名こそ変えていないが、情景設定にスペクタクルな要素を加え、さらに筋だてを整理し、コタン滅亡の危機を救うドラマとして脚色された翻案作品であり、原作にはなかった物語性がいわゆる読者受けし、以後形を変えて町民に親しまれるようになっていくのである。
 大正末期に初演されて大好評を博して以来、この「チパシリ」の物語は網走町民の心に深く刻まれ、その後も舞台劇として様々な形で伝えられていた。すなわち、昭和19年(1944)には出征兵士留守家族慰問のため、吉井 侃(当時女子校訓導)の脚色によって網走国防婦人会が「渡(わたら)島」(当時渡良岩、現帽子岩)と改題し、同会員の配役によって公演したという。戦中もこの「チパシリ」は、町民の心に生きていたのである。

(6)「チパシリ」の戦後

歌劇チパシリの楽譜
 終戦後間もない昭和22年(1947)2月11日には網走に待望の市制が施行された。当日には、それを祝って村上種彦(医師)が北見放送局の依頼で「歌劇チパシリ」を書き、「くさむら社」の会員が中央映画劇場(南3条東1丁目、現存しない)で公演した。同時にその舞台をJOKPの電波に乗せたという新聞報道がある。
 昭和24年には文化の日の行事として、初の文化祭が企画された。当日は中央小学校で郷土文化芸能大会と銘打った多彩な催しが開かれたのであるが、当時の新聞報道によれば、プログラムのなかに、この「チパシリ」を「くさむら社」が公演するという予告記事が見える。また同日に來網した北海道学芸大学(現北海道教育大学)の田所哲太郎学長(当時)がこの「チパシリ」に着目し、「網走を表象する文化」としてオペラ化の構想を発表した。この構想は翌年に至って、同大函館分校の外山定男教授(当時)に引き継がれ、同教授の台詞に同分校の林喬木教授が作曲を担当したという報道もある。網走というオホーツクの一地域から発信する文化の形として、全道に紹介される機会ではあったが、これが公演されたかどうか確認はできなかった。
 いずれの作品も、副読本版「チパシリ」と同様、物語性やスペクタクルな場面を強調するように脚色されたから、原作ではない「チパシリ」が市民に親しまれるようになっていき、また、『網走市史上巻』によって網走の地名起源に新たな論拠が与えられるまで、これが地名起源説ともなって巷間に流布していたのであった。
 また昭和25年には、「千波走丸」と命名された水難救助船(45トン)が新造された。関係者には、娘の犠牲によってコタンが救われたという「チパシリ」の物語が記憶にあって、これにちなんだのであろうか。
 副読本版「チパシリ」は、その編著作業に携わった千葉が、米村の原作と高田の脚本をもとにして、加筆物語化したものと伝えられており、それを底本としてさらに舞台劇や歌劇などに脚色されて公演されるようになると、原作と脚色作品との間で乖離が生じ、いささか混乱を招くようになっていたのである。それは昭和26年(1951)2月に開かれた、「ある会合」の結果を報じた新聞報道によって知ることができる。
当時の新聞報道
 おりから、日本各地の伝統的郷土芸能を登録し、それを保存しようとする動きが起こっていた。全国文化財保存財団の呼び掛けに応じた網走市は、「網走小唄」や「網走音頭」とともに、この「チパシリ」を申請することにしたのである。また、これを機会に「チパシリ」を文化的事業の1つ、つまり伝説郷土劇として定着させようと関係者による協議が行なわれた。出席者は、関係者として米村喜男衞(原作)、高田太郎(演劇脚本)、千葉七郎(物語)、村上種彦(歌劇脚本)のほか、有識者として選ばれたのは田中最勝(市史編纂長)、宮本金次(道社教委員)、中西仁郎(市社教委員)の諸氏であった。
当時の新聞報道
 この会合の議題は、原作著作権の確認とその翻案作品の整理であった。つまり、原作とあまりにもかけ離れて物語化されたり、あるいは高尚に過ぎたり、舞台効果に難点があるなど相互に一貫性がなくなっており、このために、真の伝説郷土劇としての愛着が生まれないのではないか、といった議論が交わされたという。原作者の米村にしても、創作の意図とは無関係に脚色翻案され、公演されるのは不本意だったであろうし、この際原作「チパシリ」の復権を主張しておかなければ、という思いがあったに違いないのである。
 得た結論としては、これを育成推進しながら定着をはかるためには、まず原作の決定稿(米村)を確認すること。次に、それをもとにして歌劇(村上)、舞台劇(吉井)、紙芝居と児童用物語(千葉)の三分野に表現形式を整理し、翻案作品の決定版を作ろうというものであった。
 この協議に基づいて米村は、散逸していた原作「チパシリ」を復元して「決定稿」とするため、記憶を辿って再稿の執筆にとりかかり、さきの日付はそれを脱稿した日だったのであろう。
技芸文化祭の一場面(左)とロセト役の最乗静子さん(右)
 また、これを受けた千葉(当時網走技芸学校主事)は、まず物語として紙芝居用に脚色し、さらに同年3月には網走高等技芸学校(現網走高等学校)の技芸文化祭で、同校生の配役による「悲恋チパシリ」を公演したのである。戦後「くさむら社」が初演した「歌劇チパシリ」の楽譜は歌唱部分のみ発見されているが、こののち村上によって歌劇の、また吉井によって演劇脚本の決定版がが作られたかどうかは不明のままである。
 当時は、原作者の米村にしても、また物語化した千葉にしても、この「チパシリ」を伝説郷土劇を超えた「網走が誇れる民話」として位置づけし、市民文化の主題にするべく各種の文化行事のなかに採り入れようと、熱心に運動をすすめていたことが伺われる。すなわち、恒例となっていた市体育協会主催の市民体育祭は、この年9月に第4回を数えるに至っており、これを機に参加市民を市街地五祭典区のほか、郊外3地区を加えた市全域に広げて種目を増やし、名称も変更して各区対抗による「第1回市民大運動会」が企画されたのである。その前夜祭には、千葉らによって「チパシリ聖火祭」が企画されたが、共催を予定した商工会議所の不参加によって計画規模の縮小を余儀なくされ、降雨のなかで例年どおりの種目による競技が行なわれた。
 またこの年、10月8日にモヨロ貝塚で行なわれたアイヌの人たちによる「第1回モヨロ祭り」(のちに「オロチョンの火祭り」に引き継がれる。)では、女声合唱隊によって千葉が作詞した「チパシリ賛歌」が歌われたという。
居串佳一作
「チバシリ−ユーカラの女」
網走市立美術館所蔵
 さらに、この「チパシリ」は絵画の世界にも生きていたのである。網走市立美術館の常設展示室の2階には、この地方の風土の影響を強く受けたと思われる居串佳一画伯(1911〜55)の作品群が展示されている。その中の「チバシリ」ユーカラの女は、画伯が急逝する前年の昭和29年(1954)の制作であり、親交があったとされる米村から聞いたであろうこの物語の、ヒロイン〈ロセト〉を強くイメージした作品ではないだろうか。このモチーフは、あとで述べる樋口岳彩(昭弘)画伯によって受け継がれている。
文芸誌『チバシリ』
 また、昭和39年には、網走女子高等学校(現網走高等学校)文芸部が文芸誌『チバシリ』を創刊している。学園長だった千葉七郎の、この物語へのこだわりがうかがい知れるのである。
 こののち、しばらくは網走文化の舞台に「チパシリ」が登場したという記録はない。
 昭和41年(1966)に始まったオホーツク流氷まつりでは、メインステージのバックレリーフに先住民族を主題にした創作民話が採用され、それが今日まで継承されている。第3回の主題だった「悲恋のロセト」は、当時市立郷土博物館長だった米村の意向が採り入れられたのであろう。米村の胸中にはヒロイン〈ロセト〉のほか、〈ノッカ〉や〈シュマカ〉が生き続けていたにちがいないのである。また第10回では、父喜男衞と同じ道にすすんだ米村哲英と、河田由春(当時市立美術館職員)の共同作品である「チパシリ物語」がステージを彩った。しかし、当時ですらそのストリーを記憶していた市民は数少なくなっていたという。
創作童話集「チパシリ」
 昭和54年(1979)には、網走小学校の佐藤将寛教諭(当時)を中心に読書好きの主婦らが集まり、網走絵本と童話のサークル「網走児童文化の会」(代表佐藤将寛)が誕生した。翌年4月に至って創刊された会員の創作童話集には「チパシリ」の名がつけられた。主宰した佐藤教諭がネーミングしたものという。創刊号の表紙には、二つ岩とそれを目指して飛び去る白い鳥が描かれており、この物語の最後の場面をイメージしたものではないだろうか。
 その後も主婦らによる児童向け読み物の創作と発表が続けられ、58年には、佐藤教諭の転勤を機にサークル名を網走童話のサークル「屯」(代表稲川喜代子)と改称した。これを最後に「チパシリ」は市民文化の表舞台から姿を消すことになる。

(7)「チパシリ」の現在

 平成4年(1992)に至ってこの「チパシリ」に、偶然ではあろうが、ちょっとしたリバイバルが起きたのであった。まず7月に出版された小説『狩りの歌』のなかの1節に、思いがけずも「チパシリ」は生きていたのである。著者である札幌市在住の佐久間悟郎は、網走中学校(旧制)卒業までをこの地で過ごしたのであるが、米村から聞いたであろうこの物語が、網走の古代を伝えるロマンとして、その脳裏に深く刻まれているのではないだろうか。
 またこの年には、造成中の道立オホーツク広域公園(現てんとらんど)のなかのセンターハウスに併設して、「ユーカラ民族館」の建設計画が検討された。そのエントランスには、樋口岳彩画伯によって100メートルの大壁画が描かれるというもので、テーマは画伯が長年暖めてきた網走誕生のロマンである「チパシリ」をイメージしたものであった。この施設には、ずばり「網走誕生ユーカラ・チパシリ館」とネーミングされ、実現に向けた建設推進準備委員会が発足した。
 資料によるとこの計画は、昭和58年8月には基本構想があり、そのご何度か修正されているのであるが、建設趣意書から画伯がこれに寄せた心情を読み取ることができる。「…『モヨロ貝塚』の名づけ親、そして発掘、保護、解明に一生を捧げ燃焼した情熱の人、故米村喜男衞氏の偉大な人物を忘れることが出来ない。…(北方少数民族には)すべてのものを霊魂として見、神聖なものとしてあつかう宗教的な信仰があった。そんな彼らの宗教心から、多くの伝説ユーカラ(神話)が伝えられた。生前、米村先生からこれら2、3の神秘に満ちたユーカラをロマンチツクに伺った。それは網走誕生の神秘とメルヘンに富んだ劇的な大ロマンである。」とし、同公園内の施設の1部に「…網走ならではのユニークな文化形態と歴史を、美的に、造形的にドラマチックに表現し」ようとしたのであった。
 この年七月には関係者による会合が開かれ、その1歩を踏み出したのであるが資金計画で行き詰まり、公表されることなく沙汰やみとなった。
 米村によって語られたこれらのアイヌ人の伝承は、ユーカラではなかったのであるが、しかし、画家としての感性を刺激して止まないのであろう。樋口画伯はこの古代のロマンをキャンバス上で表現するためのシリーズ作品を、30数年間に16点ほど発表している。平成7年には、これをモチーフとした油彩画「火祭り器神−ユーカラ(30号)」がパリ平和芸術祭で大賞に輝いている。
 また10月には「北海道新聞日曜版」の北海道民話・伝説の舞台シリーズCで、この「チパシリ」が「コタンを救った娘」という見出しで紹介された。各地からの読者の反響として「小学校の副読本で読んだ。懐かしかった」という手紙や電話が同社に寄せられたという。この網走で往時を過ごした人たちの記憶のなかに、まだ「チパシリ」は生きていたのである。
 これを取材した同新聞社の花摘泰克編集委員は、出典として『北海道の口碑伝説』を挙げている。また、″「娘の献身」今は途だえて″と見出しをつけた解説のなかで同委員は、ほかのアイヌ伝承と比較して「厚化粧が過ぎる」とし、後世の和人の創作ではないか、と疑っているのはジャーナリストらしい鋭い読みであった。さらに、この物語が後世の創作であったとしても、なぜ今は途絶えてしまったのかという疑問は依然として残るとしている。
   では、網走町小学郷土読本版「チパシリ」の要約を紹介する。

= チパシリ =

 いま、この地を網走と呼んでいますが、元の名をチパシリといいアイヌ人が名づけたもので、のちになまってアバシリというようになったのだそうです。
 この地方に和人(日本人)が現われなかったずっと昔のこと、アバシリの海はもっと奥地まで入り込んでおり、林やよし原が一面につづき、動物などがたくさん住んでいました。コタンはニクルの丘とモヨロの丘に分かれ、そこでアイヌの人びとは平和に暮らしていました。
 ニクルの丘には、ロセトという美しくて気立てのよい娘が母のイパンローと住んでおり、また二つの丘には、ノッカとシマカというすぐれた若者がおりました。
 コタンの人びとは、「ロセトの婿になるのは、この二人のうちの一人に違いない」「それがカムイ様の思し召しなのだ」と信じていました。
 二人はいつしかコタン一の勇者になりたいと、ことあるごとに競いあうようになっていったのです。ところが毎年、二人の捕った獲物の数は、ふしぎなことに同じでした。仲間たちは面白がっていましたが、二人の果てしない競いあいを心配していたのは、長老で予言者でもあるイカシでした。ちかごろ、霊鳥のカムイチカプ(シマフクロウ)が飛んで来てしきりに鳴くのです。その鳴き声から、近くコタンに大異変が起こることを予感していました。しかし、それがなにであるかは心当りがありませんでした。
 その年も秋になりました。カムイチカプは、ますます気味悪く鳴いています。
 大異変が近づいていたのです。
 「いよいよこの秋だぞ。コタンが滅びる大異変が起きるのは!」そう予感したイカシは、ニクルの丘の砦に祭壇を設け、人びとを誘ってカムイに祈りつづけました。その秋は雨ばかりが続き、その日も絶え間なく強い雨が降っていました。そうしているうち昼すぎになると、沖合に大きな白い魚が現われたのです。コタンは大騒ぎになりました。人びとのなかから、「あれはカムイチェップ(神の魚)だ! あの魚を捕った者こそコタン一の勇者だ」といいふらす者が現われました。そして人びとは、その大きな白い魚をめぐってノッカとシマカが競いあうにちがいないと思いました。イカシはそれを聞くと、
 「それは大変なことになる。だれか二人を止めさせなさい」と命じましたが、すでに遅く二人は大波に向かって丸木舟を漕ぎだしていたのです。ポンモイの沖合にはノッカが、そしてはるかバイラギ浜にはシマカが見えました。
 「ゴー、ゴッ」と、突然轟音がとどろいて大波が起こり、天まで届くように海水が吹き上がりました。そして津波のようになって打ち寄せてきたのです。二人が操る丸木舟も見えなくなっていました。
 「大変だ! これではコタンは水浸しだ!」と人びとは青ざめました。やがて、イカシの必死の祈りが通じたのでしょうか、雨も大波も鎮まってきました。そこへ、
 「大変です! 娘のロセトが見あたりません」息きってイパンローが駆け込んできました。
 「ロセトは荒ぶる海をなだめに行ったにちがいないのだ」とイカシは沖合を指差しました。
 「あの波間の豆粒のようなのがロセトだ。ロセトはコタンを救うために飛び込んだのだ」やがてその豆粒は、波間にかき消えるように見えなくなりました。
 「あぁ!とうとう沈んでしまった」
 と、突然天地と海が裂けるような、すさまじい地鳴りがとどろました。見ると河口に一つ、バイラギ浜に二つのワタラ(岩)が頭をのぞかせています。海水が引くにつれて、それがだんだんと姿を現わし帽子の形になっていきました。
 そのとき、河口の方の岩の陰から一羽の白い鳥が飛び立って、「チパシリ! チパシリ!」と鳴きながら、バイラギ浜の二つの岩まで飛んでいき、そのあたりを飛び回っています。イカシは厳かにいいました。
 「あれはロセトの生まれかわりなのだ。チパシリ、チパシリと鳴いている。あの岩こそ我らの見つけた岩だ。あの岩があるかぎり、コタンは平和で栄えるのだ」
 なおも白い鳥は、海の上や二つの岩の間を高く低く飛び回っています。
 それから、このコタンをチパシリというようになったということです。

 昭和15年(1940)に刊行された『北海道の口碑伝説』のなかのこの1編は、「チバシリ」と改題し一般向けに字句の用法を変えてはいるが、副読本版「チパシリ」とほとんど同一内容である。

  あとがきにかえて

 「チパシリ」は、米村の原作にしても、またその翻案物語にしても、アイヌ人の伝承をもとに創作された民話の傑作であり、大正末期から昭和中期にかけて、網走市民の生活と深くかかわった文化遺産ともいうべきものの1つである。
ロセトの像
 これを後世に伝えようとした先人たちの努力にもかかわらず、世代が替わることによってまさに途絶えようとしていたとき、新設なったオーツク・文化交流センター(エコーセンター2000)の前庭に、思いもかけなかった「ロセトの像」が設置された。その経緯は承知していないが、関係者における郷土網走の歴史文化への認識が、いまだ健在だったことの証しであり、その英断と制作資金を提供された企業には心から敬意を表したい。
 しかし、「ロセト」とか「チパシリ」といっても、なんのことか大部分の市民は知らないはずである。それをどう伝えていくか、またこの物語や『網走町小学郷土読本』から何を学ぶか。「ロセトの像」は、これからの市民文化を挑発し、見守り続けていくのではないだろうか。

 参考文献

網走市史上・下巻(網走市役所)、卯原内第三部落史、網走市文化小史(20周年記年誌・同文化連盟)、米村喜男衞遺稿モヨロ悠遠(米村美登里)網走町小学郷土読本(網走町教育研究会郷土研究部)、奉献雑題道祓歌枕考(棚川音一)、チパシリ、その後(拙稿)、網走の語源とチパシリ考(伊藤静致)、評伝千葉七郎(救仁郷茂)、網走新聞、 網走新報、北海道新聞、小説狩の歌(佐久間悟郎)、網走百話(網走叢書編纂委員会編)、続網走百話(同)、網走川歴史紀行(同)、モヨロ貝塚(米村喜男衞)、あばしりオホーツク流氷まつり30周年記念誌(同実行委員会)、網走地方教育史(同編集委員会編)、北海道の口碑伝説(北海道廰編)

資料協力

 網走市立図書館、網走市立美術館、磯江良三、小路喜久三、最乗静子、稲川喜代子、米村衛

(敬称略)

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