小野寺 寛

その後の中央道路

 中央道路(北見道路とも称された。)の交通量は、その後の鉄道や新道の開通などによって漸減し、大正12年(1923)に町村道とされた後は、補修もされず荒れ放題で廃道寸前の状態だったという。とくに嘉多山・緋牛内間は、近隣農家の荷馬車が往来するために使用される程度の通行となり、卯原内・美幌間の道路改良が先行したこともあって全く顧みられなかった。

 戦後の昭和24年(1949)に至り、中央道路(以下旧道という)を復活させ、網走・北見間に定期路線バスの運行をと願う嘉多山地区の嘉多山寛氏らの運動が起こった。これを契機として同27年には関係市村の首長らが北見・網走間道路改良促進期成会(会長・安藤保雄端野村長)を結成し、北海道庁などへの陳情を繰り返した結果、同29年には道道に認定された。この運動が実り、網走土木現業所によって網走市二見ヶ岡から国道39号端野町緋牛内地区分岐点までの改良事業がはじまったのは同31年のことであった。

 端野町側については不明だが、二見ヶ岡側では木下組が請け負って31年8月に着工し、臨時就労対策事業として日々14、5名の失業者を就労させ、工事費339万円、工事区間はわずか230mで同年11月に終わっている。これを初年度とする継続事業とされていたが、事業予算の関係で中断された年もあり、ようやく同38年9月に至り延長21.4Km、幅4.0m〜4.5mの砂利道が完成し、11月6日に開通式を挙げた。総事業費は12,820万円だったという。

 この事業で旧道の路線をそのまま改良したか否か、関係官公庁の記録を確認することは困難であった。『端野村緋牛内六十年の歩み』(同編纂委員会・昭和33年刊)には「…三班尾崎さん宅の西側一級国道から分岐し、菊地坂にいでトペンピラウシナイ川に沿うて三班の奥深く進み…」とある。また、開通を伝える当時の新聞記事の掲載写真に写り込んでいる背景の山並みをみると、通称菊地坂(鎖塚のあるところ)の上り口までは路線が新設されたものと推察できる。

 さらにこの記事を拾ってみると、旧道開削時の状況については触れておらず、某紙には、明治28年(1895)に入植し、後にその姓をもって地区名とした嘉多山家の祖父(注・初代忠八氏)が「こんど全通した道路をきり開いて…」、さらに「(嘉多山家の)先祖二代で築いたこの嘉多山道路」という全くの誤り記事さえ見られる。

 ちなみに、大正中期ころからこの旧道の改良運動を続けてきたとされる嘉多山寛氏は同家の三代目当主で、改良促進期成会の名誉会長に推されていた。しかし、その完成をまたず昭和36年に故人となり、開通式の席上で遺族に感謝状が贈られたという。

 旧道のうち、二見ヶ岡から迂回して分監坂(現産業道路)に至る大部分は、網走刑務所が管理する行刑用地であって立入禁止となっている。国道238号分岐点からサイクリングロード(旧国鉄湧網線)を横切って、北の方向にやや左にカーブする道路らしい痕跡がわずかにうかがえるのみである。

 かつて、この沿道には桜の並木があった。大正初期に受刑者によって植樹されたものとも伝えられており、花見で賑わった二見ヶ岡公園周辺も、昭和58年の拡幅工事の際に五十本もの桜の木が切られてしまい、行刑用地内の旧道沿いにわずかにその名残りが見える。

 その後この路線は、国道39号と同238号を結び、網走・北見間のもう一つの主要幹線道路として改良工事はいまも続けられている。

駅逓跡の調査と標柱用地をめぐって

 旧道開削とその沿道に開設された駅逓に関しては数多くの資料、文献類が公表されている。この稿では、これらとの重複を避けるためあえて触れないが、戦後になって、網走地方の開拓の礎となった今はない各地の駅逓跡地に、それを示す碑を建てるといった事業が関係市町村で展開された。しかし、網走市においては、旧道の開削工事に従事し、過酷な労働のため死亡した網走囚徒外役所の殉難受刑者の慰霊碑が、昭和43年に開道百年を記念して二見ヶ岡公園内に建てられたものの、第一号(越歳)駅逓跡地にはそれを示す標がなかった。行政も市民もこういったことには関心がなかったのかもしれないし、その痕跡がなかったのも一因かもしれない。

 昭和50年9月12日付網走新聞の「網史協通信」(39)欄に小田富雄氏の《越歳駅逓趾調査》という注目すべき発表がある。

 網史協とは網走地方史研究協議会の略称で、まず昭和44年に網走支庁管内の地方史研究者やその団体で組織した「網走地方史研究会」が設立された。翌年には地方史研究としては評価の高い『網走地方史研究』を創刊している。同47年から網走新聞紙上でおおむね毎月一回同会の活動報告や研究者の発表が行われるようになり、同49年には発展的に「網走地方史研究協議会」と改組している。これを発表した小田富雄氏は、網走歴史の会の会員であり、また同協議会の幹事長でもあった。

 その発表を要約すると、かねてから網走歴史の会ではこの駅逓跡地を調査し、位置を確認して史蹟標を建てるという構想をもっており、その実現に向け予備的な同氏の調査となったのである。その後全会員で確認調査を行い、ほぼ間違いないと判断していい場所を特定した。その位置は、道道交差点(丸山公園下)から約200m端野町寄り、嘉多山七二四番地内であって、昭和32年ころまでは駅舎の一部を改造した農家があったとされ、さらにその時代の井戸が現存し、改修されているが道路改良工事の現場事務所が雑用水に使っているという。そして同氏は、この跡地に史蹟標を建てて、これを後世に伝える必要性を訴えたのである。

 この調査をもとに、網走歴史の会では史蹟標設置にむかって具体的な動きをはじめる。

 『網走の碑』(網走市教育委員会・昭和57年刊)の《渡道第一夜の宿》「39越歳駅逓跡記念碑」には、船木喜代二氏を中心として幾度も現地を調査して確認し、「えんじゅ」の古木は菊地慶一氏が奔走して入手、高津正雄氏が揮毫した文字を佳夜総角(竹田洋一)と佐々木太良の両氏が彫ったという。小田富雄氏は基礎工事を受け持ったらしい。寄付に頼って石材でという意見もあったようであるが、手づくりの方が先人を偲ぶのにふさわしいということから、すべて会員諸氏の手によるものであったと佐々木太良氏は書いている。こうして「越歳駅逓趾」の標柱は昭和54年1018日に建てられた。

 標柱は、機械化された農作業の支障にならないようにと配慮したため道路ぎわの畑の端にあり、年月を経て周囲に雑草が茂ってくると、端野町側から二見ヶ岡方向へ走行する車中からはほとんど見えなくなり、歩行者もまれで、やがて人々から忘れ去られようとしていた。標柱そのものも、風雨にさらされて土中部分が腐り、なんどか倒れたがその都度穴を掘って建て直された。

 それも限界という時期に至って網走歴史の会は、市内の歴史的建造物や文化的施設等があった場所に恒久的史蹟標柱を建て、それを後世に伝える事業をと構想したが、任意の団体である同会の資金力では不可能であった。そこで平成6年(1994)11月、市の事業として取り上げてもらうべく、第一号(越歳)駅逓跡を第一順位とする20ヶ所の史蹟候補地を挙げて、網走市教育委員会教育長宛に「網走の史蹟標柱設置要望について」なる文書を提出した。

 平成9年は網走市制施行五十周年の記念すべき年であった。その前年に計画された各種の記念事業の中で、市教育委員会が担当する事業の一つとしてこの案が採択されたのだった。小田富雄氏が提言し、それまで日の目を見なかった網走歴史の会の要望が、記念事業として実現することになった。

 まず、市教育委員会は網走歴史の会が候補として挙げた歴史的建造物や施設等をさらに絞り、また追加し、その跡地の調査確認作業と標柱建立の場所の選定にとりかかった。しかし既に別の建物があったり、地権者との交渉によっては断念せざるを得ず、また必ずしもその場所に建立できないものもあった。標柱の銘文を委託された網走歴史の会では、なんども会合を開いて文案を練りあげ、市教育委員会の担当者と協議を重ねた。

 史蹟候補の中で最も重要とされた第一号(越歳)駅逓の跡地は、法務局の登記関係簿書で確認すると、その取扱人だった内山清吉が大正2年(1913)に廃業した後の同4年に、所管していた内務省からその敷地が無償付与されていることが判明した。明治36年勅令第二十二号に「北海道官設駅逓所土地建物及付属物件無償付与ノ件ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム」とあって五年以上取扱人を勤続した同人は、廃業後に駅舎、敷地、牧場及馬匹その他付属物件を無償で付与されたのであろう。

 その当時の土地の表示は、網走郡網走町大字最寄村字越歳一九六番地であった。その後分筆され、所有者も替わってはいるが、昭和13年の字名改正のとき字嘉多山七二四番地となっていて、前述した小田富雄氏の調査報告は正確であった。平成九年春に行った市教育委員会と網走歴史の会の合同調査では、標柱の位置は当該敷地内からわずかに網走側にずれており、少しぐらついていたがまだ健在であった。

 さきに述べたように、折しも道道端野・網走線の改良事業が進行中であった。 その付近の道路改良計画では大がかりな拡幅が予定され、しかも路面が数メートルも嵩上げされることになっていた。立ち並ぶ測量杭をみても元の位置での用地の確保は難しく、標柱の建立は不可能であり、単年度の記念事業としては断念せざるを得なかった。かわって「ポーロの坂」が追加され、あわせて二十基の史蹟標柱が市内に建立された。嘉多山地区では、近くの「荷揚坂」にそのうちの一基がある。

 第一号(越歳)駅逓跡地に碑を建てるという市教育委員会の計画は、その歴史的意義にかんがみ、異例ともいえる措置で翌年度以降に繰り越されたのである。そのための予算こそ計上されなかったが、前提となる用地確保のための事務は担当職員によって続けられた。もちろん、網走歴史の会では、資料の提供などこの作業に全面的に協力した。

 元の位置での建立が不可能ならば、改良工事の進捗にあわせ、かつての駅逓敷地内に路肩からテラス状の張り出し地を造成する案が検討された。しかし、地権者が難色を示したため駅逓跡地側での用地の確保は難しくなり、次善の策として跡地の向かい側、つまり道路を挟んだ山側の路肩に用地を造成する案が検討された。これには、こういった文化的事業に理解を示した当時の網走土木現業所関係者の積極的な配慮があったのであろう。公共事業を行う官公庁にとって、用地買収をともなう設計変更は、地権者との交渉を含め、そう容易にできるものではない。

 こうしてこの案が確定し、道路改良工事とあわせ用地の完成を見たのは平成15年5月のことで、同年の暮れに財団法人網走監獄保存財団によって碑が建立され網走市に寄託された。

 工事の際に引き抜かれ、新しく造成された用地の付近に放置されていた初代ともいうべき標柱は、その後、網走歴史の会によって処分された。

平成9年調査時平成12年(嘉多山郷土誌から)
平成15年5月の除幕式完成した用地近くに放置された標柱
標柱位置関係図

indexにもどる