1.モイワからの旅

 近くに居ても、なかなか行くことのできない場所がある。子供の頃から、その場所へはどうやって、行くことができるのかと考えていた。その場所とは能取湖から能取岬を通り二ツ岩までの海岸線で、そこに普段では見ることの出来ない風景を、我が目で確かめてみたかった。もう一つは網走へ先人(和人)たちが、どの道を辿って来たのか知りたかった。このことは子供の頃から漠然と考えていた。私は、この二つの素朴な疑問を解決するために能取岬の海岸線と先人の歩いたと思われる道の踏破に向かった。勿論、先人が歩いたと思われる道は残ってはいないだろう。だが、それを探しながらの小さなの旅となった。 古希を迎える昭和のガキ大将は己の体力の衰えも顧みず、この夢に挑んだ。先ず網走を訪れた先人たちの資料を読むと、様々な記録が残されていた。だが、それ等の文献を鵜呑みにすることなく、私は独自の判断と解釈で分析しながら歩くことにした。
 出発地は常呂との郡境で網走市能取地区の海岸だった。この地にアイヌ語でモイワと呼ばれる小高い丘がある。モイワとは小さい山を意味し札幌の藻岩山の地名も同じだった。能取史によるとモイワには川があり、そこが昔、漁場の斜里場所と宗谷場所の境界だという。つまり川の東、網走側が斜里場所だった。モイワは能取史によると伏見山と呼ばれていた。緩やかな山は大半が農耕地となっていて、頂付近と南斜面が雑木の森となっていた。問題はモイワ川である。舗装された市道は能取湖西岸に続く道だった。その途中に草に覆われた道があった。市道から、わずか50mほど入った所に、小さい水の流れの跡を見つけた。これがモイワ川かと思った。流れの跡を辿ると途中から畑の側溝に繋がり、少しばかりの水が能取湖に流れていた。これはモイワ川ではないと感じて再び市道へ戻った。
 私は反対側のオホーツク海に向かった。均平された畑が続く中に農家があり、季節風から家を守る防風林があった。200mほど緩い斜面の道を行くと畑地の終点に出た。一段と低くなった砂浜の壁は人の足跡で崩れ、簡単に海岸へ出れた。ふと見ると畑の終点の中に隠れた草叢から水が流れていた。流れの上を見上げると青空を背景に灌木の木立ちがあった。木の間からモイワ山を見た。先ほど見た水の流れた跡の沢地と、ほぼ直線で結ばれていた。この流れが本当のモイワ川だと直感した。丘の裾野に湧き出した水は、元々このオホーツクの海に小川となって注いでいた。だが農地改良で畑は均平され沢は埋められた。湧水は地下水となって今は暗渠を通り海岸で地上に出たのだ。先人たちが歩いた道や砂浜を辿り、そして海岸線を行く小さな旅の始発点は、ここだと決めたのだった。

2.能取湖口西岸へ

   海岸で常呂の方向を見ると常呂の豊浜漁港で作業するクレーン船が見えた。視線を進行方向に移すと遠くに能取湖口の導流堤と防波堤、それに波消ブロックが長く沖に伸びているのが見えた。能取湖に向かい砂浜を歩きだした。柔らかな感触が靴底から伝わる。だが柔らかい砂ほど歩き辛い。寛政10年(1798)の幕府調査隊の絵師、谷口青山の『自高島至舎利沿岸二十三図』によると「トウフツヨリ、トコロ迄砂深く行き難し」と記録されている。柔らかい粗砂ほど歩きずらかった。陸側は14.5mほどの高さで、急な斜面となっていた。近づくと緑で覆われた部分以外は、茶褐色の土に砂が混じっていて風雨で浸食されていた。
 斜面の下の波打ち際には流れ着いた漂着物で、足の踏み場もないほど散乱していた。魚網や太いロープ、プラスチック制の大小の浮き玉。中にはハングル文字のもある。清涼飲料水のペットボトルに洗剤の空瓶、コンビニ弁当の空箱など、品数を数えれば切りがない。目を覆うばかりの惨状だった。歩きだして40分ほど行くと丘側の斜面は砂山だった。大半が緩やかで緑に覆われていた、その緑の斜面を引き裂くように車輪の跡が残されていた。多分、四輪駆動車だろう。自然の草花が咲き始めたこの季節、自己満足のために自然を破壊する愚か者に私は激しい憤りを感じた。
 渚を歩き出して約一時間、湖口の西岸に着いた。危険防止で張られた金網の内側に何台もの車が止まっていた。釣りを楽しむ人たちの車だった。金網越しに見える岸壁はゴミが散乱している釣り人たちの仕業だ。この人たち自分の家の中もゴミを散らかしているらしい。側に立入禁止と書かれた看板がある。この人たちは日本語が読めないらしい。立派な社会人?が実に嘆かわしい。
 海水は海から湖内へと激しく流れていた。200mの湖口の水路は渦を巻くほど早く、水泡はどんどん遡っていた。昔この湖口を越えるのに渡船が使われたと記録されている。だが冬から春までの時期、時化の度に打ち寄せる波と流氷によって、砂が運ばれ湖口が閉ざされ湖面は凍る。春になり氷が溶け雪溶け水で湖面が増水すると、湖口の自然開削が始まる。それまで先人たちは砂嘴の上を渡ったのだろう。和人が定住し湖で漁をする人たちは春になると毎年、水路の開削に従事した。勿論、手作業だった。やがて能取漁港の工事に伴い湖口に永久水路が建設された。
 そして開通したのは昭和49年4月20日のことだった。この水路によって湖内の魚介類に少なからず変化が生じている。私は遡る流れを見ていたが、このままでは対岸に渡ることはできない。車の置いたモイワまで歩いて戻り、湖の周囲を一周する形で東岸に向かった。5月20日、初夏と呼ぶには早すぎるが温暖化現象のためか、この季節としては珍しく暑かった。暑さしのぎに窓を開けて車を運転していた。国道238号の分岐点で国道から離れ能取岬へ通じる道に入った。(つづく)

つづく-->