網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  


臼田幸人・都代子さん

 

 

 


臼田亜浪

 

 

 

 


臼田亜浪を囲んで

 

 

 

 


天都山頂上から

 

 

 

 


天都山から見る呼人半島

 

 

 

 


瓜生卓造の「流氷」

 

 

 


天都山から網走刑務所を望む

 

 

 

 


オホーツク流氷館

 

 

 

 


流氷館屋上の宮柊二歌碑

 

 

 

 


宮柊二歌碑除幕式後のつどい

 

 


司馬遼太郎の
『オホーツク街道』

 

 


北方民族博物館

1.天都山からの眺望

『臼田亜浪句碑』臼田亜浪(大正13)

 「遠くからでも、すぐ祖父の句碑とわかりました」  ゆるい登りをまっすぐ句碑に向かって歩いて来た臼田幸人さんは、そう言って亜浪の句碑に手をのばした。天都山頂上のオホーツク流氷館前にある石碑に刻まれている作品は、俳人臼田亜浪の代表作といわれる。

    今日も暮るる吹雪の底の大日輪

 平成八年(一九九六)九月の半ば、亜浪の孫に当たる臼田幸人・都代子さん夫妻が来網して句碑の前に立った。
 「石楠」主宰の俳人で、ホトトギスを批判し新しい自然観を確立したといわれる臼田亜浪が、昭和二十六年(一九五一)に没してから、あと数年で五十年を迎える。亜浪の句碑は全国に二十三か所あり、北海道には洞爺、登別、本別、網走の四か所がある。東京八王子市に住む臼田夫妻が、祖父の句碑を訪ねる旅を始めて数年、天都山の句碑は二十一番目の訪問であった。
 「一ばん立派で、いちばん大事にされている碑だと感じましたね。涙があふれそうな思いがします」都代子さんが、案内をしてきた十七美会の高清華さんと、磯江波響さんにそうもらした。
 句碑の周辺は整備が行き届き、すぐそばに青と白の桔梗が花をつけている。高清華さんが裏へ回って碑文を読み上げる。「この句碑は本邦俳壇の巨匠故臼田亜浪先生が大正十三年一月北門巡杖の途次ゆかりの地網走の旅舎から望んだ朔北厳冬の大自然に描きだされたすばらしい景観に詩情を深め‥‥」
 この碑は昭和三十二年(一九五七)に、網走の俳句の会十七美会が創立四十周年を記念して建立したものである。除幕式には亜浪の子息、臼田九星さん夫妻を迎え、門人七十人が道内から駆けつけたという。
 臼田亜浪が網走を最初に訪れたのは、大正十三年(一九二四)の一月九日だった。札幌、野付牛(北見)を経て鉄道の終点だった網走に到着、翌日斜里の俳人を訪ねるため、馬橇で十里(約40キロ)以上の旅に出た。ところが斜里で大雪に閉じこめられ数日を過ごしたという。
 天都山の一句は、斜里行きの前だったのか後だったのか。亜浪は率直な感動を紀行文として残している。

   『――ああ、日が落ちてゆきます。屋根も森も一様に吹雪に閉ぢられた大空の果てを金色にぼかしてくるめきながら落ちてゆきます。日一日もろもろのいとなみの上に大慈の光りを投げた大日輪は、明日の日を恵む生々の光りをうちに包んで、徐かにくるめきながら落ちてゆきます。ああ、自然と人とに恵まれた今日の日も恙なく暮れるのです。私は胸がいつぱいになりました。今日も暮るる吹雪の底の大日輪』(大正13年「石楠」)

 この文章を見ると、亜浪が夕暮れの天都山頂上に立っていたようにも思われるが、そうではない。亜浪の門人だった地元の俳人、竹田凍光さんが語っているものがある。

   『すっかり氷結している網走湖は、見るからに寒々とした夕暮れだった。太陽はちょうど網走湖に落ちようとしていた。湖上は吹雪いていて、そこには太陽が真っ赤にもえて真っ白い筈の雪の色があざやかな金色を帯びていた。こんな光影をじっと見つめていた亜浪先生は大きくうなづいておもむろにペンを持った。おそらくあの光影に感激されたのだろう』    (昭33年3月網走新聞記事)

 亜浪が見た網走湖の情景は、天都山頂上からのものではない。竹田凍光さんは、また亜浪の様子を次のようにも書いている。

   『――網走の歓迎会で、松井旅館にお泊まりになった時、オホーツク海の結氷原、それも夕まだきの北方ならでは見られぬ自然現象――旅館の窓から黙祷するかの様に、じっと眼を凝らされた塑像の如き先生の横顔を拝した時の緊張感、期せずして皆の眼が先生にそそがれた瞬間、おもむろに示されたのは、
      けふも暮るる吹雪の底の大日輪
の御作であった。‥‥畢生のお作として示された先生は尚暫く、ぢっと吹雪に荒む海氷原に吸いつけられたように、そして心なしか熱いものが身内に感じられたかの如く、列座の門人達に深い感銘を与えたことは言うまでもない』
           (「臼田亜浪先生」昭和27年石楠社)

 これによると、直接天都山頂上での体験を詠んだものではなく、網走滞在中に接した真冬の大自然から生み出された作品であることがわかる。しかし、場所の特定がなくとも、少しも句の価値を損なうものではない。
 亜浪は網走から野付牛町(北見)に戻り、池田線で本別に立ち寄る。本別の句碑には『宵々に雪踏む旅も半ばなり』とある。本別も雪だったのだが網走、斜里の雪原の印象がずっと続いていた。
 孫の臼田幸人夫妻は、初めての北海道の旅を、洞爺、登別、本別と三つの祖父の句碑を回って、網走が最後だった。この日の夕方には東京に戻るというが、もう一度冬の季節に網走を訪ねたいと希望をもらしていた。祖父の句を味わうには、冬の天都山頂上から落日を眺めながら立つのがいい。
 この日、天都山からオホーツクの海が見えていたが、知床の連山は低い雲にかすんでいる。それでも亜浪が斜里への途中に、氷結の湖上を馬橇で渡ったというはるかなトーフツ湖が輪郭をはっきり見せていた。

『北海道行脚日記』若山牧水(大正15)

 大正十五年(一九二六)に網走を訪ねた歌人の若山牧水は、天都山から見る二つの湖について記しているが、網走湖に突き出る呼人半島の景観に驚いている様子がわかる。

   『走ること里余、三眺山の麓に着き、立派な山路を徒歩して登った。山は樹深く、路の両側にも我等に珍しいものが数多あった。なるほど頂上の眺めはよかった。眼下に網走湖あり、やや右手にのとろ湖あり、いずれも深くたたへて大きな湖である。ことにあばしり湖の中に呼人半島といふが浮き出て半島全部が密林であるため、さながら大きな影が水上に浮かんでいる様であった。而してその水辺一帯は鮮かに紅葉し中どころはまだ黒かった。また遠く雌阿寒岳、藻琴山の高山が雲の間に望まれ、振返ればオホーツクの海が見渡された。』

『流氷』瓜生卓造(昭和35)

   『忽然として、網走湖の水が白く光った。車は、山頂に停止した。
「いやあ、すごい」
ドアーをあけて、大地におりたつと、輝までが思わず叫んだ』

 網走駅に降り立った男女三人は、ハイヤーで天都山に向かう。展望台からの眺望は次のように描写される。

   『北から西へと、みわたすかぎりの紅葉であり、紅葉のあいだに網走湖、その向こうに台地をへだてて、能取湖が、静かな水をたたえていた。いましがた和船が一艘滑るように湖心に向かっていた。
 湖尻からは、網走川が大きく蛇行して海にそそいでいる。曲り角の左岸の台地に、赤レンガの高塀がめぐらされていた。網走刑務所である。――
 ふりむいて東をのぞめば、河口にならぶ機帆船の向こうにオホーツク海の荒海、知床の山々。東南の方、斜里岳は湖と原野をしたがえて大きくひらけた裾野が一望におさめられ、ひときわ荘重な山容である。
 さらに首をめぐらせれば、藻琴山が、なだらかな隆起を見せ、遥か彼方に、シルバー・ヴィオレットの雌阿寒岳の噴煙がのぞまれる』

 この小説は天都山からの眺望をかなり詳しく描写しているだけでなく、網走湖の古代生成のことや、モヨロ民族のことなども詳しく書かれている。しかし、主人公は湖畔の宿に一泊する予定を変えて、斜里へ向かう。天都山や網走湖を見て「昼すぎから、ハイヤーをかって、博物館、水族館、先住民族の遺跡などを見て廻ってしまうと、彼等はここに泊まる必要を感じなくなったからだ」
 やがて、舞台は知床半島、阿寒国立公園へ広がっていく。題名の「流氷」が描写されているのは、斜里の海岸である。
 瓜生卓造は天都山から刑務所を眺め「塀の横には、整然と畑が耕やされ、耕作に余念がない青衣の囚人たちが豆粒ほどに見おろされた。黒い土はチリ葉一つなく掃き清められている」と書くが、これほど見えるかどうかはともかく、天都山からの眺望には、網走刑務所を欠かすことはできない。

『宮柊二歌碑』宮柊二(昭和34)

 天都山頂上に建つオホーツク流氷館の屋上展望台に出ると、360度の眺望が待っている。オホーツク海と、網走、能取、濤沸、藻琴の湖と、大雪や阿寒、知床の山並みを余すところなく見せている。景観に目を奪われて、たいていの人々が見過ごしているのが宮柊二歌碑である。それは屋上の西の隅にひっそりと置かれている。

      北国の日筋きびしく差す下に能取網走の湖二つ見ゆ

 宮柊二の歌碑が、なぜここに建つことになったのか。
 昭和三十四年、コスモス主宰の宮柊二は網走を訪れている。歌集「多く夜の歌」に<天都山より>と題した歌は「北国の‥‥」の他に二首がある。

      色くらきオホーツク海の沖辺より立ちて寄せゐる秋の白波
      知床の岬をつつみておもおもと垂れたる雲は海に入りたり

 また、北辺行と題し次の歌がある/P>

     網走を指しゆく汽車に年老いし寂しき一人の農夫と隣る

 宮柊二は、昭和五十二年(一九七七)十月に再び来網した。この時、出迎えて案内したのが、当時卯原内に在住していた寺田周史さんであった。

   『現代歌壇の巨匠、今世紀最後の歌人と聞くその重さとは別に雪深い新潟に育った自分には、ただ同郷の人にお会いする懐かしさに似た安心感があった』(文芸網走)

と寺田さんは書く。網走近辺をあちこち案内する中で、寺田さんはもし宮柊二の歌碑を網走に建てるならと、勝手な想定をめぐらしていた。
 その後北海道コスモス短歌会の人たちに歌碑建立の動きが出て、昭和五十八年(一九八三)にまさかの構想が現実化し、寺田さんを中心に「網走文学碑建立期成会」が作られ、この年十月三日に除幕したのである。宮柊二の歌碑は道内では、旭川市、札幌市のほか、小清水町の濤沸湖畔にもある。
 宮柊二は、戦後を代表する歌人で、その作品は戦後文学の記念碑とも評された。また、かつて兵士として四年間中国大陸で過ごした人である。「さまざまに見る夢ありてそのひとつ馬の蹄を洗ひやりにき」と歌うだけでなく「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづれて伏す」と戦争の罪の苦痛をうたう戦争詠にもすぐれた作品が多い。宮柊二は、昭和六十一年(一九八六)に七十四歳で没した。
 昭和五十八年十月三日、宮柊二歌碑の除幕式のしおりに、私(菊地)は次のように書いている。

   『粉雪の降る夜であったか、流氷しばれの夜であったか。とにかく冬の一夜、若い仲間と酒を飲んでいる席で、寺田周史さんは宮柊二歌碑建立の企てを語った。この時、寺田さんの眼差は少年のようであった。何かを誕生させようとする気迫は美しい。
 その夜、熱いものが私の胸で揺らぎ、寝つかれぬ思いをしたのは、宮柊二の名が三十年も前の残火を俄にかきたてられたからであった。当時私は北大雪の開拓地で、教わる人もなく稚い短歌をつくり始め、やがて旭川の歌誌「あさひね」に加わった。
 主宰者酒井広治は、白秋門下の人であったから、「あさひね」の有力同人は「多磨」から宮柊二の「コスモス」に参加していたのである。私にとって宮柊二は遠いものであったが、酒井広治から宮柊二、北原白秋と続く系譜の中に自分がいるのかも知れないという、ひそかな思いがあった。
 僅かの期間、独りのさみしさを、これにすがっていた若い時代が確かにあった。しかし、短歌の重い枠と系譜に辛抱できず、離れ怠けて幾十年か過ぎた。たったこれだけの因縁なのに、宮柊二の名は私を眠らせないのである。最近、私は夜学の教室で短歌を授業した。

  「蝋燭の長き炎のかがやきて揺れたるごとき若き代過ぎぬ」

 宮柊二の青春挽歌ともいうべきこの歌は、高校教科書に所載されている。揺れたるごとき時代を、どれだけ生徒に近づけて鑑賞させられるか。教壇の苦闘はなかなかみのらず空しい。――――― 』

『オホーツク街道』司馬遼太郎(平成5 )

 司馬遼太郎の『街道をゆく38』は「オホーツク街道」である。知床から稚内までのオホーツク沿岸を、消えた狩猟民族オホーツク人の謎をルポしたものだ。風景描写などは少ないが、<町の中のアザラシ>のところで天都山が出てくる。

   『網走にいる。
このまちに、天都山がある。
標高二〇七メートルの小さな隆起ながら、山頂からは、北にはオホーツク海が見える。まわりに網走湖や能取湖の湖水が光り、雄阿寒岳を望み、知床半島まで見ることができる。
 その天都山の南東の斜面に、道立の「北方民族博物館」という瀟洒な建物がたっている。
 石段をのぼってゆくと、正面に三角錐のたかだかとした構造がそびえていて、きわだつ思いがする。おそらくニブヒやウイルタといった少数民族の夏の住居がイメージされての設計にちがいない』

 昭和四十七年来網の俳人石川桂郎(風土)は、天都山頂上で

     網走の獄てのひらに吹雪の/P>

 と詠み、同行した斉藤玄(壷)は、

     下界より吹雪く網走番外地

 と詠んでいる。


つづく

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