網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  


網走湖

 

 

 


湖口付近の網走川

 

 

 


夕光の網走川・刑務所付近

 

 

 


『晩籟』高橋揆一郎

 

 

 


冬の網走湖

 

 

 


『見知らぬ橋』船山馨

 

 

 

 


三木澄子

 

 

 


湖口に近い網走川

 

 

 


『オホーツク妻』田中小実昌

 

 

 

 


『みずうみ紀行』渡辺淳一

 

 

 

 


能取湖のサンゴ草

 

 

 


サンゴ草の能取湖

 

 

 


大正時代の網走湖

2.網走の印象は網走湖から始まる

 天都山の頂上から西に網走湖と能取湖が見える。近年、周囲の木立が高くなってきているが、流氷館の展望台に上れば、いっそうはっきり見ることができる。眼下の網走湖は<網走への旅>では最初の印象となる。
 歌人の宮柊二の歌に
      色づくは落葉樹にて女満別過ぐれば黒き鉄道防雪林
      みづうみの端光りつつ勢ひて網走川となる水動く
 とあるが、網走湖とそれにつながる網走川は、すぐに歌人の目をうばったのである。

『はじめて見た層雲峡から阿寒への道』倉橋由美子(旅・昭和40)

 倉橋由美子が見た春の網走湖は、まことに明るく穏やかなものだった
   『網走はあかるい町でした。それは、北方の海、オホーツク海の意外なあかるさのためでしょうか。午後の逆光にきらめく湖、ミズバショウの点在する湖面、エゾマツ、トドマツの防雪林をとおして光る水、緑を映して湖にそそぐ河口‥‥網走の周辺にはいくつかの湖があって、雪と氷が去ったあとの、この水の多い風景は、まことにあかるくおだやかです』

『オホーツク海岸をゆく』田宮虎彦(昭和45)

田宮虎彦は昭和四十五年(一九七〇)の五月に網走を訪れて紀行文を書いているが、網走の思ってもいなかった美しくおだやかな風景に心をとらえられた。
   『網走の町へ走る道路は、網走湖から流れ出て、網走の町でオホーツク海に流れこむ網走川にそっていた。――萌え出た草の緑におおわれた川堤の間を、雪融けで水量を増した水がゆったりと流れている。その川のむこうになだらかな低い丘が、やはりもう緑につつまれて、絵のようにという言葉のままにつづいていた』
 倉橋由美子や田宮虎彦の感じた網走川の周辺の風景は、わたしたちが一ばん大切にしなければならないものである。絵のようなという表現がぴったりの風景を、ふるさとにして持っていることの幸せをかみしめたい。

『オホーツクの海を見たくて』古山高麗雄(昭和49「旅」)

 芥川賞作家の古山高麗雄は、昭和四十九年(一九七四) に網走を訪れて紀行文を書いている。古山は稚内からオホーツク沿岸ぞいに網走にやって来て網走湖荘に到着する。
   『夜が明けると、このあたりもなかなか眺めが好いのであった。旅館の窓の下は網走湖の小波で、かもがふかふかと浮かんでいるのであった』
『昨日、網走湖荘に案内してくれた北交タクシーの大倉鉄将さんに今日も迎えに来てもらって、一日、網走界隈をまわることにした。――大倉さんは、網走生まれだそうで、よき解説者であった。まず大観山に登り、知床の山々を望見し、網走湖や網走刑務所を俯瞰する』
 川湯、屈斜路湖、美幌峠と回るのだが、大倉さんとの交流も書かれている紀行文となっている。季節は四月下旬らしく「もしかしたら<一番悪いときに来た>のかも知れない。<流氷もなく、花もない>時に」と古山は書くが、濤沸湖の白鳥などに十分満足した様子が書かれている。
 大倉鉄将さん(網走市内)は、古山高麗雄の印象を次のように語っている。
「作家ということを知らなかったね。網走のことを書いた雑誌が送られてきてわかった のです。文学者という感じでなく普通のおじさんでしたね。でも、話をよく聞くやさし い人でしたよ」

『網走・登別、苫小牧』杉森久英(昭和45北の話)

 杉森久英は徳田球一の伝記を書く取材のために来ている。
   『網走へいったのは、六、七年前の十一月だった。――空気が澄んでいて、町を取り巻く川や湖の水も透明で豊かにたたえられてるのがよかった。網走湖の岸を自動車で走ったが、前にもうしろにも、動いているものは私たちの車だけで、歩いている人もなく、およそ人間の姿を見なかった。湖面はさざなみ一つ立てず、静まり返っていて、対岸の針葉樹の森が、見ずにさかさまに影を落としている。そのときの印象を、のちにある句会で
     冬木立 そのまま水に 映りゐる
 という句にして出したら、高点を取ったので、得意になって、その後色紙をといわれると、そればかり書いている』
 およそ人間の姿を見なかったとはいささか大げさだが、昭和三十年代の網走湖畔では、そのようなこともあったかも知れない。

『晩籟』高橋揆一郎(昭和56)

 では、冬の網走湖はどのように書かれているのか。
   『車内のかすかなざわめきで、終着網走が近いことが知れる。すると自分が疑いもなく柏原多恵と会うために、いまこうしてやってきたのだ、と急に意志的な気分になり、私は坐り直して窓の風景にとりついたりした。車窓の左手に、樹林に囲まれた純白の雪原が見えてきた。あとで聞いて知ったのだが、その雪原が網走湖だった。私にはとても湖には見えなかった。湖は結氷をとかぬまま、まだふかぶかと眠っていた。
 湖畔近く、青鷺が一羽、片脚でつくねんと佇んでいた。青鷺は上を向くのではなく、うつむいていたため生気が感じられなかった』
 冬の網走湖風景である。五十代の男女が出会いのために、それぞれ別々に網走にやって来る。男は海辺のホテルに泊まって女と会うが、何事もなく終る。熟年の男女の恋は複雑で切ない、という微妙な心理が描かれている作品である。

『虹』澤野久雄(昭和47)

 澤野久雄の短篇『虹』にも同じ冬の網走湖が出てくる。
   『――今、車の通ってきた道の向うに、冬枯れの並木と雪原が見えていた。なにもないうす闇の中では、ひたすらに平らな原である、いや、左手から、狭い落葉樹の疎林が長くのびてきていて、その林のはずれに、ぽっつりと灯が一つともっている。その灯の向うは、また遥かな雪の原だ。
 「これは‥‥?」
と、彼は言った。なにかがおかしいのだ。
 「きれいでしょう。網走湖‥‥」
 「ああ湖か。それでわかった。」
 雪原と思ったのは、雪の降り積んだ湖面なのである。ひとすじ伸びてきている疎林は、湖に突き出している細い岬なのだった。――』
 ここでいう岬は呼人半島の岬だろう。たしかに雪原と化した湖は、初めて見る者にとって湖とは信じ難いはずである。

『見知らぬ橋』船山馨(昭和46)

 凍った湖は「見知らぬ橋」でも描かれている。「美しい説得力を持った悲恋物語」と小松伸六(文芸評論家)が評したという『見知らぬ橋』は、網走湖から始まる。
 魚住名緒子は網走駅に着き、タクシーに乗る。
   『――いくらも行かないうちに家並が切れ、右手の樹林の向こうに、半島のように突き出た陸地に抱かれている白い平原が広がってきた。網走湖である。
 運転手は「まわりが四十キロあるんですが、いまは凍っているんで、向うの村との往復には、湖面を歩いて渡っています。そのほうが、ずっと近道ですからね」と教えてくれた。やがて車は左手の丘陵の雪道を蛇行しながら登り、ホテルの部屋からは結氷した湖が一望に見下ろせた』
 ここに出てくるホテルは、網走湖畔の観光ホテルだが、湖畔や天都山にあるどのホテルからも湖は一望できるが、氷結した湖面の広大さは強く印象されるはずである。

『冬のオホーツク海』居串佳一(昭和22)

 雑誌「北方風物」に網走が生んだ画家居串佳一は、「冬のオホーツク海」と題して短文を書いているが、網走湖の氷切りにふれている。
   『網走湖あたりでは一尺くらゐから二尺ほど厚味の湖上面に氷切りがはじまる。勿論夏期における鮮魚の冷凍輸送に倉入りするわけだが、ガラスのやうな氷面に馬剃りと立働く人々の入混る光景は、ゴビ砂漠を隊商の通る如くエキゾチックな眺めであって、網走駅に着く五分ほど前に網走湖畔を列車は通過する時以前目撃した人もあらうと思ふ。』

『北に青春あり』三木澄子(昭和56)

 もう一人、網走湖を愛し続けた作家三木澄子を上げないわけにはいかない。昭和四十年代、ジュニア小説では、御三家の一人といわれた三木澄子が、網走湖の近くの「アニマの里」の青年たちを描いた「北に青春あり」という作品がある。終章に網走湖の風景が描写されている。
   『国道三十九号線を網走のほうへ向かいながら、ふたりは気づいたが、やがてその何よりの証拠を見た。虹だった。
 左に森に囲まれた網走湖が現われ、しばらく走ると、突き出ている呼人半島という緑の半島が終わって、湖は驚くばかりの広さになるが、まもなくせりだした陸地にはばまれて、一級河川網走川になる。せりだした陸地は、東洋唯一の農園刑務所の大耕作地だが、白樺だのハンだのカエデだのニレだの雑木林にふちどられ、対岸からはそこを眺めることはできない。丈高く深々と繁る林は、湖面と川面に影を映している。
 虹は湖と林を大きく抱く形で、鮮やかにかかっていた。湖も林もその遠い背景のゆったりした丘も、右手の天都山も、雨後の透明な陽光に輝き、ふたりを感動させずにおかない美しさだった』
 この湖口付近の描写は綿密で正確で、どれほど三木澄子が網走湖に愛着を持っていたかが伺われる一節である。
 三木澄子は、昭和十六年(一九四一)、芥川賞候補作品「手巾の歌」でデビューしたが、戦後ジュニア小説作家として活躍した。昭和四十九年(一九七四)、東京から網走湖の見える呼人に居を移し、静かに創作に専念した。三木澄子の書斎から網走湖の一部が望まれた。「北に青春あり」は、作者最後のジュニア小説である。地元の同人誌「文芸網走」に創作を発表していたが、「晩祷」という作品を執筆中に急逝した。昭和六十三年(一九八八) 七十九歳であった。

『終着駅は始発駅』宮脇俊三(昭和57)

 網走湖と隣り合っている能取湖にについて、鉄道旅行作家の宮脇俊三は次のように書く。湧網線があった頃のディーゼルカーの旅である。
   『網走刑務所の敷地内を抜け、左窓に網走湖を見渡して走ると、こんどは右窓に白樺林を透して能取湖が現われてくる。列車は湖の南岸から北岸へと約一五分かかって半周しながら氷に覆われた冬の能取湖を満喫させてくれる。うっすらと積もった雪の上には、ときどき動物の足跡が見えるばかりで人跡はまったくない』

『オホーツク妻』田中小実昌(昭和50)

 ディーゼルカーに乗って、オホーツク海沿岸を旅するのは、『オホーツク妻』の<ぼ く>である。
   『北海道には船できた。――そして、釧路で二晩、根室で三晩、知床半島のほうをまわり、昨日の昼すぎ、網走から能取湖、サロマ湖を右に見て、オホーツク海を北上する湧網線のディーゼルカーに乗った。
 オホーツク海ぞいに稚内までいくつもりだったのだ。
 北海道も、七月、八月の観光シーズンがすぎて、ディーゼルカーのなかも、ほとんど通学の高校生、中学生で、旅行者らしい姿はなかった。
 北海道の畑は大きいが、この地方は、とくに広い。
 能取湖をすぎたあたりで、はるばるとつづくスロープになった畑に、雨がふってきた。
 秋のきまぐれお天気、キツネの嫁入りなのだろうか。雲のあいだから陽もさしているので、雨が、金、銀の糸になって見える』
 <ぼく>はある町に泊まり、紅い灯を求め、そこで逢った女と一夜を明かし、旅を始めるという話だ。田中小実昌が得意とする一人旅の物語である。

『オホーツク街道』司馬遼太郎(平成5)

 網走湖の湖口付近に、このところ毎年アザラシの姿を見るが、これを書いているのが、「オホーツク街道」の中の<町中のアザラシ>の項である。
    『「アザラシがきています」
と、ホテルできいた。それもオホーツク海から網走川に入りこみ、なんと市街地を通って、ホテルのそばの網走湖に入っているのである
  ---------------------------------------------
 ホテルの丘を降りると、国道39号になる。
 なるほど、二頭のアザラシが寝そべっている。
 湖は、凍っている。国道39号に沿って網走川が流れ、湖水が川になって流れてゆくあたりだけが、水が動いているためか、凍っていない。
 アザラシはひろびろとした氷の原にいるのではなく、流れている水際にいる。背後からキツネに襲われそうになると、川にとびこむ。そのために水際にいる』

『みずうみ紀行』渡辺淳一(昭和60)

 渡辺淳一の「みずうみ紀行」は全国十九の湖を描くが、札幌出身だけに道内は十二と多い。(「みずうみ紀行」は後に「湖畔幻想」と改題され角川文庫となる)
 そのうち能取湖・サロマ湖が一つになって紹介されている。網走五湖(網走湖、能取湖、リヤウシ湖、藻琴湖、濤沸湖)のうち能取湖を選んだ理由を「二つの湖(サロマ湖も)が一部、海と接した潟湖で、湖の性質も景観もよく似ているからである」と書き、二つを説明したあと、二つの湖で見逃せないのはサンゴ草だという。
 サンゴ草は学名はアッケシ草という。釧路管内の厚岸で初めて発見されたためこの名がついた。淡水と海水が入り混じった汽水湖畔に育ち、秋になると紅サンゴの色になるのでサンゴ草ともいう。十センチか二十センチの丈で、一本では先の方がやや赤く見えるが、群生するとまるで真紅の絨緞である。
 渡辺は九月の初旬に能取湖を訪れたらしいが、既に輝くように燃えていた。
   『土地の人々は、サンゴ草の赤が、一年の色の最後だという。この真紅の色が消えるとともに、秋が深まり、やがて長い冬になるのである。
 してみると、サンゴ草の緋毛氈は、厳しい北国に住む人々に、自然が与え給うた、最後の安らぎということになる。』
 土地感覚でいえば、網走ではサンゴ草が最後の色ではなく最後の安らぎではない。紅葉は十月である。網走川に沿う樹林の木々が色をつけ、湖を取りまく丘陵の山々が燃えるのはまだまだ後である。しかし、そのことはたいした違いではないだろう。渡辺のいうとおりサンゴ草の色が褪せると秋はたちまち深まるし、自然の与える安らぎが心満ちて来るからだ。
 今年も九月の初旬、卯原内の能取湖畔でサンゴ草まつりが開かれた。たくさんの人々が湖畔を訪れ、ツブやホタテの貝焼きを味わうのである。
 「オホーツク海道」司馬遼太郎も卯原内を訪れている。
   『赤い原は卯原内という所である。
 川の名でもある。卯原内川。
 ウバラナイとはアイヌ語で、河口が死んでいるという意味らしい。行ってみると、まことにそうで、河口が死んだあたりが湿原で、ただ一種類の草でおおわれている。秋になると、草ぜんたいが朱紅色になる。折りからがそうで、踏めば足がめりこみそうなほどの厚みをもった赤い絨毯の原だった』
 もう一度、渡辺淳一の文章に戻ろう。
   『それにしても、このサンゴ草の朱の鮮やかさは、透明な空気と、果てしない空と、その空を映してかぎりなく澄んでいる湖水があってこそ、成り立つものである。これがもし、都会の喧騒や、淀んだ空気の下に移されたなら、ただの赤茶けた草として葬り去られるに違いない。
 その意味では、植物にとって、都会の猥雑さは、オホーツク海の自然の厳しさ以上に過酷だと、いうことになる』
 サンゴ草についてつけ加えるなら、渡辺がサロマ湖の群生地として上げている計呂地は、今は群落がわずかしか確認されていない。本家の厚岸湖畔は絶滅状態というから、今や卯原内は「日本一サンゴ草群落の地」として間違いはない。
 渡辺は「もし一言で「網走の町の印象は?」きかれたら、私は躊躇なく「森と湖に囲まれた町」と答える」と書くが、湖の存在は来網作家たちにとって、ことさら印象深いのである。
 湖をうたった短詩型の作品も多く、次のものが見られる。
  網走の湖口の風をいっぱいに
   のぼりきたれる帆はちからなり  
小田観蛍
  湖や珊瑚草いま錦なす加藤 三七子
  海を湖を青嵐吹きめぐるかも臼田 亜浪
  新緑の肺に溶けいる湖畔荘 佐藤 春夫
  涼しさや峠登れば網走湖 星野 立子


つづく

indexへもどる  トップページへ