網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  


網走刑務所の煉瓦塀

 

 

 


安部譲二「囚人道路」

 

 

 


網走刑務所

 

 

 


昔の網走刑務所全景

 

 

 


昭和20年代の刑務所

 

 

 


刑務所の内部

 

 

 


木橋時代の鏡橋

 

 

 


徳田球一伝

 

 

 


放射状の舎房

 

 

 


村上国治の
『網走獄中記』

 

 

 


山田清三郎の『小説白鳥事件』

 

 

 


伊藤一の『網走番外地』

 

 

 


吉村昭『破獄』

 

 

 


網走監獄墓地

 

 

 


刑務所内の工場

 

 

 


脱獄囚がこえた煉瓦塀

 

 

 


網走刑務所の裏山

 

 

 


網走刑務所の灯ろう流し

 

 

 


刑務所にそって流れる網走川

3.文学作品の中の網走刑務所

    たもの林を透かし湖を見つつ居りて網走監獄をわれは見たりき
    谷地だもの防雪林監獄の煉瓦塀今日また見れば今日又かなし
 とうたったのは、「アララギ」の歌人土屋文明である。網走湖の湖口から網走川沿いに網走の街へ向かう時、最初に目に入るのは網走刑務所の煉瓦塀である。文明の来網は昭和九年(一九三五)だが、この時には川沿いにはもっと木立があったのだろう。
 志賀直哉の「網走まで」以来、網走のイメージは最果ての網走刑務所と結びついて来たためか、多くの作家が網走刑務所について書いている。
 網走刑務所は、明治二十三年(一八九〇)釧路集治監網走囚人宿泊所として発足したが、それは囚人道路と呼ばれる中央道路の開削を目的としているものであったことは、よく知られている。

『天の墓標』夏堀正元(昭和50)

   『大井上(釧路集治監典獄)は、明治二十三年、網走に外役所をつくり、五十人の囚人を移した。これが網走監獄のはじまりで、石狩から網走にいたる北海道中央道路の工事が、外役所の仕事となった』
と夏堀正元は述べて
   『もともと北海道の集治監は、すべての反政府運動を”隔離”して、封殺するためにつくられたという側面を持っている。――硫黄山(川湯)での外役はなくなったものの、標茶―釧路、標茶―厚岸間の道路工事にまわされた囚人たちの苦役が、彼(教誨師原○昭)に暗い気持ちを抱かせていた』
と書いている。この後に網走からの中央道路の囚人使役が始まるのである。
それを描いたのは安部譲二の「囚人道路」である。

『囚人道路』安部譲二(平成5年)

   『北海道の春は遅い。
 北海道も東のはずれにある網走では、三月の半ば過ぎまで、全てが厚く積もった雪に閉ざされている。
 かんじきを履いて監獄の裏にある丘に登って見渡しても、目に映るものは、灰色の空とその下に覗いている落葉樹の梢だけで、他は雪ばかりで何も見えない。海までが鉛色に鈍く輝く流氷におおわれている』
 この風景から始まる中央道路開削の物語は、秋川鉄之介という秩父困民党事件に加担して捕らえられた青年を主人公にして始まる。千人の囚徒のうち、三百人が犠牲になったと伝えられる事件である。安部譲二は短期間網走刑務所にも収監されていた体験を持つが、そのことが「囚人道路」への執着となったと語っている。

『網走囚徒』柴田錬三郎(昭和43)

また、柴田錬三郎の柴錬立川文庫の「日本男子物語」の中に、<網走囚徒>という短篇がある。昭和四十三年に、既に囚人道路開削の悲惨な状況を作品にしているのだ。陣内礼吉という老人がタコ部屋で語る集治監の話で、網走の囚人が工事現場から脱走を図る話である。

   『網走や北見地方の、沼沢地帯の工事は、さらに悲惨を究めた。
 昼夜兼行の工事だった。真夜中に、一方の平地の端で、狼煙を上げる。すると、もう一方の平地の端でも、狼煙を上げる。それを合図にして、双方から、囚人たちが、湿地帯へ踏み込んで行くのだ。氷雨の降りしきる暗闇の中を、葦の茂った沼へ、ずぶずぶと入っていく囚人は、その行手が、底無しであることを知らされてはいなかった。しかし、すこし進めば、それは、判った。といって、足鎖をはめられ、モッコを背負った囚人たちは、もう、どうすることもできぬ。進むよりほかにすべはなかった。囚人たちは、死の泥沼にはまり乍ら、誰も、底無しだとは叫びはしなかった。叫んだならば、あとから助けに来る者がいないからだ』
 大曲から二見ケ岡に向かう方角に、今もわずかに残されている葦原を見ると、柴田錬三郎の書く湿地帯が浮かび上がってくる。

『青春時代』長田幹彦(昭和27)

 監獄を見て「根こそぎ人生観が変わって来た」と書くのは、長田幹彦である。大正三年に網走に来て「網走港」を書いているが、その時網走監獄も見たらしい。「青春時代」の中の<奈良の尼寺>に次のように書いている。
   『網走の監獄へ見学にいったその晩、寝ていると、遠くでしきりに銃声がしている。宿の女中に聞くと、また重罪犯人が逃亡したのだろうと一向平気である。そうした囚徒たちは、腰に重い鎖をつけて、山地へ木材の伐さいにやられる。大木が倒れる時に、下敷きになって惨死する者もあれば、断崖から落ちて死ぬものもある。まるでシベリヤの流刑人を彷彿せしめるような悽惨さであった。―――――そんなこんなで流石の僕も根こそぎ人生観が変わって来た。舞伎の振袖の移り香なんかことごとく忘れてしまった。――――』

『網走の覚書』宮本顕治(昭和59)

 中央道路開削のために設けられた網走刑務所は、その後朔北の刑務所として全国に知られ恐れられ、歴史を重ねる。
 戦中に思想犯弾圧のために、作られた治安維持法で検挙され、東京拘置所で十一年間を送った宮本顕治は、昭和二十年(一九四五)六月、無期懲役の刑が確定し、網走送りとなったのである。十二年目の監獄生活を記録したものが「網走の覚書」である。

   『一九四五年の六月十六日の午後、私は巣鴨の東京拘置所の正門から、網走刑務所から私の身柄をうけとりにきた三人の看守につれられて池袋の駅へ歩きはじめた』
 「網走の覚書」はこのようにはじまる。
   『――小一時間ばかり歩くと(駅から)濠をめぐらした刑務所の塀が現われた。小橋を渡ると、大きな鉄の正門。刑務所独特の広い陰気な建物が山裾に沈んでいた。その夜、刑務所の暗い廊下に突きあたった一番左の端の監房に私は入れられたが、一応「近代的」な鉄筋コンクリートの巣鴨にくらべると、これは、いかにも明治年代にできたままの牢屋の感じだった。畳もなく、うすべが敷いてあるきりで、窓は高く、便器が片隅にあり、廊下に面した側は、太い角材の柱がすいたまま並んでいた。例によって、小さい薄い敷きぶとんと、一枚の綿の堅い掛けぶとんが片隅においてあった』
 宮本顕治の網走刑務所での生活は「和裁工」として作業をし、夜は読書をした。独房 には小さな窓があって、澄んだ深い蒼の空が見えた。
   『――日が落ちるにしたがって、細長くまだらに重なった雲の色の変化は多彩を極めた。私は今でも、この北端の町の夕焼雲ほど印象に残る空のながめを見たことがない。――』
   『午前中、オホーツク海に面したこの地方はよく「ガス」がたちこめて、独特の冷気がせまった。監獄の山やそのなかに開墾された畑も、ガスが出ると窓から見えなくなって、灰色のモヤが空気に充満してくる。そんな日、六月下旬というのに、寒さで軽いしもやけができたことがある。――』
 しかし、二か月の網走刑務所の生活で、時代の状況は一変する。
   『――八月十五日の午後三時ごろ、窓の外を囚人をつれて通っている若い看守が、防空壕を指さして、「これも二十世紀の遺物か」と言っているのが、ふと、耳にはいった。――』
 宮本賢治は戦争終結かとハッとする。
   『やがて夕方、雑役が「ポツダム宣言受諾」と通知してくれた。私はまだポツダム宣言のくわしい内容は知っていなかったが、無条件降伏であることはおぼろ気に分かっていた。二、三日たって、天皇の勅語のことが正式に所内マイクで独居房の私たちに知らされた』
 宮本顕治は二十七年後の昭和四十七年(一九七二)の夏、網走を訪れて刑務所も見学した。「刑務所長の案内で、私がもと収容されていた舎房の前に立って感慨深いものかあった」と書いている。

『播州平野』宮本百合子(昭和22)

宮本顕治の妻である宮本百合子は「播州平野」を次のように書き出す。

   『――一九四五年八月十五日。正午に重大放送があるから必ず聞くように、と予告されていた』
『翌日、ひろ子は網走刑務所にいる夫の重吉へたよりを書きはじめた。いつお帰りになるでしょう。書きたい言葉はその一行である』
『自分も重吉の〇る網走へ行って暮さう。文筆上の自由職業をもって〇るひろ子が、さう決心したのは、七月下旬のことだった』
『ひろ子の〇るところでさへ八月になれば、山山の色が変化した。網走には、もう秋の霧が来て〇るだろう。オホーツクの海からの吹雪が道を塞ぐ前に、せめて北海道まで渡りたい』

 宮本百合子はなんとしても網走へ来たかったのだが、戦争は末期となり青函連絡船も停滞し、作中のひろ子は網走とは反対方向の、重吉の田舎へ行かねばならないはめになるのだ。

『徳田球一伝』徳田球一(昭和27)

   『ただ、寒かった。骨のずいにしみとおるあの言語に絶する寒さは、六年間の網走生活の記憶を、いまもなおつめたく凍りつかせている――』
 と書いているのは、宮本顕治よりも前の昭和九年(一九三四)から、昭和十五年(一九四〇)まで網走刑務所に収容されていた共産党の徳田球一である。徳田は網走刑務所の想像を絶するきびしい寒さを繰り返し書いている。
   『その年の十二月も暮れ近くなってからわれわれはにわかに北海道へおくられることになった。――網走は、なにぶんにもあの寒さだから、監獄のようす喪よそにくらべるとだいぶかわっている。屋根はぐっとひくいし、外気にふれるところはすっかりめばりがしてある』
 その後に、食糧は監獄としては割と豊かであり、寒ささえなければ暮し良いと書いているが、寒さの例を次のようにいう。
   『真冬には、零下三十度にさがることもめずらしくなかった。そんなときには、暖房のはいった監房のなかでも零下八度とか九度とかをしめす。はいた息が壁にあたると、見るまに凍りついて、無数のこんぺいとうができる。こんぺいとうは壁にだけできるとは、かぎらない。うっかりすると、眉毛のさきや鼻のあたまにもできる。しょっちゅう気をつけて鼻をもんていないと、やけどのようにどろどろになって腐ってしまう』
 吐いた息がこんぺいとうになるとは、すごい話である。このほか、寝る前に冷水摩擦をしなければ、寝巻が凍っているので肺炎を起こすとか、寝ている間に口の周りが凍傷になるとか、布団乾燥を月に二回しないと、布団の氷が一寸にもなるなどのことが書かれている。やや、オーバーなふうにも思えるが、当時の寒さは、現在の感覚では想像が難しいだろう。徳田球一は神経痛が持病になったのである。
 しかし、春になると監房の窓から、外の野原が見えた。
   『このながめは、とりわけ春が美しかった。ながい、さむい冬があけると、春はまず木の芽におとずれる。そこここの木々の枝に、まぶしいほどのあざやかさで、若芽がめぐむ。あのあざやかな緑は、本州ではけっして見られない。本州の画家にはとてもこの色は出せまいと、見るたびにわたしはおもったものだ』
『タンポポは背はひくいけれども、一面に黄いろい花をひらいて、じつにみごとだ。タンポポのむこうでは、マツバボタンが、もうせんをしきつめたように、原っぱをはっている。あかいのもあれば、黄いろのも紫いろのもある。そして、このような色とりどりの草のあいだに、監獄で飼っているウサギが、まっしろい背をまるくして、そこここに遊んでいる。まったくそれは、ちょっと監獄ばなれのした美しさだった』

『網走獄中記』村上国治(昭和38)

 戦後の有名な「白鳥事件」の村上国治は、雪が降る網走駅に降り立って暗い街を目に する。
   『――じゅずつなぎのまま刑務所のバスにのせられ、走る。刑務所の中も暗くて、ところどころにうすぐらいあかりが天井にぶらさがっていた。肩をすぼめ腰をまげていくつかのくぐり戸をくぐり、廊下を曲がり、あなぐらのような舎房に出る。第四舎第九房。目がなれてきたら向い側の房や、少しはなれた房で、札幌の未決監で顔みしりだった連中が、のぞき窓から合図しているのがわかった』
 白鳥事件の村上国治は、昭和三十八年(一九六三)網走刑務所に移送され、昭和四十四年十一月に仮釈放される。この間、獄中記を書き続けたほか、多くの詩を書いた。この人は作家ではないが、網走刑務所で文章を書き続けた人として取り上げた。

『小説白鳥事件』山田清三郎(昭44)

 村上国治仮釈放の日までを書いているのが、「小説白鳥事件」である。昭和二十七年(一九五二)一月、札幌で白鳥警部が射殺され、その容疑者として逮捕され、各地の留置場、刑務所で十七年間拘置生活を送った村上国治が、昭和四十四年(一九六九)に出獄するまでを描いた四部作である。
   『その日、一九六九年十一月十四日、網走の空は、雲のかげ一つなく、ふかい紺碧をたたえて、明けていった。
 オホーツクの海も、風がないで、おだやかな波音だった。やがて、刑務所裏の山を照らし、赤煉瓦の色の古くくすんだ塀をぬきでて立つ監視塔をそめた太陽の光が、獄舎の屋根からあたりの地上に落ち、網走川の流れに光を砕き始めるころ――』
 網走の晩秋を象徴するような描写であるが、村上国治の仮釈放の日は、たしかに明るい朝であった。

『網走番外地』伊藤一(昭和40)

 宮本賢治、徳田球一、村上国治とも三人は、政治犯とでもいうべき人々だが、一般の収容者自身が網走刑務所を描くという例は少ない。その一つは伊藤一という人の作品である。
   『風は凍結前の網走湖の鈍く光る水面から吹きつける。湖に架けられた橋を渡ると、左側に古めかしい、いかにも監獄と呼ばれるにふさわしい赤煉瓦の高い塀が見えてきた。塀に沿うポプラの葉を落とした枝も風に揺れている。正門前で車は停まる。既に懲役たちの作業は始まっているらしく、外掃夫が四、五人で掃除している姿が目に入った』
 この人は、東京から送られて来て一年数か月服役する体験を書いている。

『破獄』吉村昭(昭和58)

 吉村昭の『破獄』は、網走刑務所を語るときに、必ず登場するSという人物の話である。青森、網走、札幌の刑務所で脱獄を繰り返し、脱獄魔と呼ばれた男の物語は、長い間、際物としか受け止められていなかったのだが、吉村昭はこれを文学作品に結晶させた。それは、時代を描くという視点であり、特に昭和二十年前後の、戦時と敗戦の時代背景を見るという巨視的なものに貫かれている。
 昭和十八年(一九四三)四月二十五日、男は五名の看守に監視されながら、東京拘置所から網走に移送されてくる。
   『――翌朝八時四十五分、列車は、終着の網走駅に到着した。プラットホームにおりると、刺すような冷気が体をつつみこんできた。市内は厚く雪におおわれ、空は青く澄んでいた。
 出迎えの看守にみちびかれ、一行は、白い呼気を吐きながら駅の通用口を出ると護送用のトラックに乗った。トラックは低い家並みの間をぬけて、両側に田のひろがる雪道をすすんだ。――』
 ここでも、田の広がる雪道という表現がされているが、田は畑という意味であろう。また、正確には畑に雪の残るのが見える道というのが、地元感覚である。
 男は網走刑務所に服役するが、翌年の八月脱獄する。「破獄」という作品は、獄房に閉じこめられた男と、閉じこめた男たちの闘いであるが、時代と状況の描写も詳しい。例えば、二つ岩から能取岬までの囚人による軍用道路の開設の状況、昭和二十年七月十五日の網走空襲の折、裏山の横穴式防空壕に囚人を退避させた状況などである。また、四季の描写の中でも、冬の寒さや流氷についても何度も書いている。
   『――獄房の壁は囚人の体温と呼気で濡れ、たちまち凍りつく。さらに霧がながれこむと氷は一層厚くなった。房内におかれた寝具も凍り、夜、寝るときは氷をもんではらい落さなければならない。囚人たちは凍傷をふせぐため絶えず手足をこすり、顔を摩擦していた』
 吉村昭は、「破獄」を書くとき、昔網走刑務所で看守部長を勤めた人に会うため網走へやって来た。エッセイ集「旅行鞄のなか」(文春平4 )に「網走へ」と題した短文がある。
 夜にホテルを出て、小さな居酒屋風の店に入ってビールを飲み、ホッケを食う。女主人一人だけの店のようすが書かれているが、この人の文章は淡々として味わい深い。
 さて、脱獄魔のSという男については、他にも船山馨、八木義徳、太田蘭三も書いているから、よほどの事件であり、よほど興味のある人物なのだろう。

『脱獄者』八木義徳(昭和25)

 八木義徳も同じSの話である。昭和十九年(一九四四)八月二十六日の夜、暴風雨をついて網走刑務所を脱獄する様子が詳細に描写されている。
   『昭和十九年八月二十六日の夜は暴風雨であった。しかも折柄燈下管制中で、獄舎全体は半減電燈である。――彼は手錠をはずし、足枷をはずした。青い獄衣を脱ぎ捨てて、褌一本の素っ裸となる。はずした金属手錠を自慢の怪力をもって、飴のように引き曲げ、曲げた先端を居房正面の小さな視察孔の鉄棒にひっかけてひと息にこれを引き抜く。そこから手を差しのばして合鍵で錠前をコジ開けると、脱兎のごとく表廊下へ飛び出した。廊下から居房の格子に足をかけスルスルと猿のように高い天井に這い上がると、天窓の採光硝子(厚さ三分、二十番鉄線八分亀甲入り)下からガンと一つ頭突きを食らわせて忽ちに突き破りそこから屋上に這い出る』
 船山馨の『破獄者』(新潮昭和24)もSの話だが、昭和十九年三度目に網走刑務所を破獄したと説明されているが、網走について特に描写はない。
 地元作家の山谷一郎の「脱獄魔白鳥由栄」はSの網走刑務所移送から脱獄までを詳細に描写している。

『寅吉懺悔――明治凶徒伝』夏堀正元(昭和47)

 脱獄ではもう一人の男がいる。五寸釘寅吉と呼ばれた男の犯罪と脱獄、そして七十歳 で世を去るまでを描いたのがこの作品であるが、網走が登場する場面は少ない。
『――こうして、五寸釘寅吉は当局にいままでとはちがった意味で嫌われ、網走分監へタライ廻しされていった。明治四十年、寅吉四十八歳のときである』と説明されている。嫌われたのは釧路監獄で、脱獄を断念し待遇改善要求をつづけていたからである。網走に来て十七年後、大正十三年秋、五寸釘寅吉は網走監獄を出所した。無期徒刑囚の寅吉が出所できたのは、「奇跡としかいいようのないものであった。」と夏堀正元は書いているが、理由は模範囚になったからである。
 五寸釘寅吉を書いたものには、山谷一郎の「五寸釘寅吉の生涯」がある。

『網走刑務所』八木義徳(昭和25)

 八木義徳は昭和二十五年、雑誌に「網走刑務所」を書いている。これは”ふるさと紀行”ものの一つで、長年の畏怖と神秘の対象であった網走刑務所を見学する。職員の案内で内部を見て回るが、門のようすなどは次のように描写されている。
   『鉄門は厳めしく閉ざされていた。
 獄の門――象徴的だ。いっとき見上げる。――――門をくぐって、私は驚いた。前庭はすばらしい英国式庭園だった。一点の塵もとどめず清潔に掃き清められた広い芝生に、或いは丸く、或いは四角く、或いは三角に、或いは紡すい形に、さまざまの幾何学模様に刈込まれた水松の植込みが、整然と図案風に配置されていた。一条の太いコンクリートの舗装路が、正面の鉄門から刑務所表玄関まで一直線にこの広い芝生と庭を貫いている。さながら堂々たる大富豪の邸宅の前庭であった』
 かつての網走刑務所の前庭を見たことのある人は、この詳細なルポに納得するだろう。

『赤いレンガの身分帳』井出孫六(昭和55)

   『「今年は流氷が早々とオホーツクの海に流れ去ってしまったせいか、いつもの年よりもいくらか暖かですよ」
 駅前から乗ったタクシーの運転手氏の説明にもかかわらず、窓外には小雪が時々ちらつき、灰色の雲がたれこめていた。網走川にかけられた眼鏡橋を渡ると、赤レンガの厚い塀が目に入る。いま、その塀の内側では明治の末に建てられた網走監獄の建物が徐々にとり壊されて、鉄筋の新しい建物が次々に建てられていっているという』
 これは、井出孫六が雑誌「世界」に書いた<網走刑務所の七〇年>というサブタイトルのルポルタージュである。詳細なルポは北海道行刑史のシンボルとしての網走監獄の歴史をとらえつつ、この時期の問題として、行刑の中心から教育への情熱が失われることを危惧しているものである。

『鎖塚』小池喜孝(昭和48)

    『網走川にかかる橋を渡った。明治二十四年の開所以来、刑務所に入れられる囚人たちが、この上から姿を写した橋だという。高さ三メートルの赤い煉瓦の塀が、刑務所と外界を画然と区切っている。小さなくぐり門を抜けると、正面に事務所があった』
 と始まるのが「鎖塚」である。筆者の小池は事務所で秩父事件で収容された囚徒の書類の存否を聞くが、拒否されるのだ。
 このルポルタージュは、副題に<自由民権と囚人労働の記録>とあるように、中央道路開削の歴史を明らかにしたものであった。
 土屋文明は再度網走を訪ねたのだろうか。次の歌がある。また他の短詩型の作家たちの多くが網走刑務所を歌っている。

谷地だもの防雪林監獄の煉瓦塀
     今日また見れば今日又かなし    
土屋 文明
囚人一人見ずもの陰の雪氷り 石川 桂郎
門さきに鍬うつ囚徒地虫出ず 飯田 蛇笏
片蔭をなすが能なり獄の塀  斉藤  玄
獄舎出て梅の白さが眼に残る 北  光星


つづく

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