網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  

  

  


志賀直哉の「網走まで」

 

 

 


明治末期の網走

 

 

 

 


最近の網走市街

 

 

 

 


旧網走駅跡

 

 

 

 


網走停車場を望む

 

 

 

 


当時の網走市街と網走川

 

 

 

 


現在の刑務所鏡橋

 

 

 

 


串田孫一の「北海道の旅」

 

 

 

 


高橋揆一郎(左端)を囲んで

 

 

 

 


海辺の街

 

 

4.終着網走駅の風景

『網走まで』志賀直哉(明治43)

 夏の網走駅で、列車から降り立ってくる観光客を眺めていると、朔北の地にはるばるやって来たといういわくありげな表情はないが、終着駅に降り立ったという安堵感がにじんでいるように見える。
 終着網走駅という表現は正確でないのかも知れない。網走は石北線の終着駅であり、釧網線の出発駅であるのに、何かしら終着と最果ての雰囲気が漂うのは、網走刑務所のイメージが底を流れているせいではないのか。
 明治四十三年(一九一〇)に発表された志賀直哉の短篇小説「網走まで」は、東京上野駅で乗車した母子の行先が網走であるというだけで、実際の網走は一つも書かれていない。それなのに「網走まで」というタイトルが、何ものかを想像させる。
   『――しばらくして自分は「どちらまでおいでですか」と訊いた。
「北海道でございます。網走とか申す所だそうで、大変遠くて不便な所だそうです」「何の国になってますかしら」
「北見だとか申しました」
「そりゃあ大変だ。五日はどうしても、かかりましょう」
「通して参りましても、一週間かかるそうでございます」――』
 これを読むと、母子が一週間もかかって降り立つのが、網走駅であるような気がする。私は長いことそう思い込んできたが、それが簡単な誤りであることは、小説が発表された明治四十三年(一九一〇)には、野付牛(北見市)までしか鉄道は開通されていなかったことで分かる。網走まで鉄道が延びたのは、小説発表から三年後の明治四十五年(一九一二)である。
 明治四十三年では、札幌から帯広、池田を経て北見まで鉄路を利用し、北見からいわゆる囚人道路を歩いて、網走へ到着するのである。赤子と七つばかりの男の子を連れた若い母親は、どのようにして網走まで到着したのだろうか。
 「網走まで」は、二人の子どもを連れた女の人が客車に乗り込んでくる。わがままをいう子どもの世話をする様子を見て、前の座席にすわる<自分>は、いろいろと境遇を想像し、子どもの父親であり女の夫である男を想像する。宇都宮で<自分>が下車するとき、女は二枚の葉書を投函してくれるように頼む。名も聞かず聞かれもせずに分かれた<自分>は、ポストに葉書を投函する。というだけの話である。
 私は、専門学校で若い女性たちに「網走まで」を読ませるとき、網走まで行く女の人の目的を訊く。網走刑務所に服役する夫との面会とか、子どもを連れて家出の途中とか、放蕩の夫から逃れるためとか、学生たちの想像はいろいろに広がる。それらを訊いていると、やはり網走までであって、この短篇は函館までや、札幌まででは成立しなかったのだろうと思うのである。
 ところで、志賀直哉が北海道に足を運んだのは、「網走まで」を書いてから四十一年も経った戦後の昭和二十六年(一九五一)だった。支笏、登別、洞爺に一泊ずつという典型的な北海道観光コースだった。なんでも寝台券を阿川弘之が苦労の末手に入れてくれ、津軽海峡を洞爺丸で渡ったという旅は、まだ戦後の名残が濃い世相を表わしている。
 まだまだ旅は不自由な時代だったものの、在道十一日の旅でなぜ網走に向かおうとしなかったのだろうか。直哉にとって母子の行先を網走にした以外に、網走への関心はほとんどなかったのだろうか。「網走まで」は処女作である。しかも、最初「帝国文学」に投稿したのが没になり「白樺」創刊号(明43)でようやく陽の目を見たという因縁の作品に、直哉が無関心であるはずはない。
 来道の時六十八歳になっていた直哉は、既に創作の筆をとらなくなっていた。この旅は特に目的のない独り旅で、後に作品化されることもなかった。直哉は己の網走のイメージを守り通そうとしていたのかも知れない。創作をやめていた直哉は、処女作の反芻をあえて避けたのではないだろうか。想像に過ぎない想像である。来道時の直哉の日記にも、そのことはふれられていない。
 初めての来道の二十年後、昭和四十六年(一九七一)に志賀直哉は八十八歳で没した。たった一度だけの来道で終りとなったのである。

『網走港』長田幹彦(大正3 )

 実際に網走を訪れて、その印象を小説にした作家は大正三年(一九一四)の長田幹彦が初めてである。長田は再度の来道で、札幌から十勝の池田で網走本線に乗り換え、三日がかりで網走停車場に降り立った。大正三年四月中旬である。
   『――網走駅の終点なので停車場も貧しいながら何處やら今まで通って来た驛々とは違っていた。降車する客も三々伍々プラットホームに動いて、凍えた空気の底には砂利を踏む〇音と咳払いの声がひそひそとひびいてゆく、私等を乗せて来た列車の機関車が走ってゆく転轍気の向かうには、濃い夜の闇のなかに紅いシグナルの燈がしょんぼり点って。そこから構外へかけてはほの白い木材の山が幾箇所となくもくもくと群立している。そして停車場の建物のなかヽら射して来る明りは扇の地紙なりに線路の方ま流れて、時々何処かの闇のなかで鳴り渡る汽笛の声が却って四辺にひっそりとした静けさを漲らせるのであった』
 最果ての終着駅のさみしさが漂っている。汽笛の音は、季節はずれの流氷が再来し、木材積取船「弥彦丸」が流氷の海に閉じ込められているのだが、それが寂寥感をいや増しているのだった。この頃網走の街は、戸数三千、人口一万六千人ほどであった。
 この時の網走駅は、現在の新町にあるものではない。現網走駅は昭和七年に移転建設されたものである。では、どこに網走駅はあったのか。大正元年(一九一二)に野付牛から網走まで鉄道が敷設されたとき、現在の南三条西三丁目の産業会館ビル辺りから、日石スタンド付近にかけて駅舎は造られたのである。ここには現在「旧網走駅跡」の史跡標柱が建てられている。
 なお、長田幹彦には、本道を描いた作品が三二編ほどある。その中に「続金色夜叉」があり、尾崎紅葉の「金色夜叉」が中断したものを、続編にしたものだ。お宮と別れた間寛一が渡道して、置戸に農場を開く話である。池北線置戸駅には<再会の松吹雪する春五月>の句碑がある。

『泊り』中野重治(大正11)

 『網走まで』から十二年後の大正十一年(一九二二)中野重治が網走にやって来た。重治はまだ二十歳、学生の頃である。
   『――四、五日まえの話。
 私は、その鉄道の終点にある、北の方の海ぎしの小さな町へ降りた。もう夏の日も暮れていた。見るとこの小さな寂しい町の停車場前の広場には、何か急ごしらえのトタン張りの大きな門が建っていて、黒い字が書いてある。店さきにはだんだら染めの幕が掲げてある。日の丸がばだばた弱い音を立てている―』
 中野重治が降り立った網走駅は街の中心近くにあった旧網走駅である。重治が目にした日の丸は畜産共進会があるためのものだった。重治は停車場付近で宿屋を探し始めるが、なかなか見つからない。交番に行っておまわりさんに、遊廓らしい宿に案内してもらい泊まることになる。

『網走の覚書』宮本賢治(昭和20)

 現在の場所(新町)の網走駅について書いているのは宮本賢治である。
 旧駅舎は釧網線の開通によって、スイッチバックして網走駅に乗り入れることになったため、昭和七年に移転されていた。
 敗戦近い昭和二十年(一九四五)六月に、網走駅に降り立ったのは宮本賢治であった。治安維持法で検挙されていた宮本は、巣鴨の東京拘置所から網走に移送されて来たのであった。
   『網走の駅に着いたのは夜半だった。六月も二十日に近いというのに、夜気はするどく冷たかった。駅前の小さく寝しずまった家並み。でこぼこで歩きにくい夜道。――』
 と「網走の覚書」で書いている。三人の看守と共に夜道を歩く行先は網走刑務所である。当時は砂利道である。
   『まもなくたんぼつづきとなった。ときどき立ちどまり重いトランクの肩をゆるめたりして、小一時間歩くと濠をめぐらした刑務所の塀が現われた』
 駅から刑務所まではたんぼはなかったはずだから、畑地が続いていたのだろう。濠と書いているのは網走川であろう。オホーツク海の潮の満干によって、網走川は流れを全く止める。夜の小さな明かりでは濠に見えたに違いない。
 宮本賢治が<重いトランク>を背負っていたのは何か。看守にそんな重い荷物を持って行っても仕方がないだろうと言われながら、冬の衣類と本を詰め込んでいたのだ。太平洋戦争が今年中に日本の敗戦で終ると信じ、一年くらい差し入れなしでも読めるだけの本を手放さなかったのだった。

『北海道の旅』串田孫一(昭和37)

 網走駅は同時に網走駅前とひとまとめになっている。旅の記憶がその町の駅前の風景や足を踏み入れた食物屋とつながっていくことが多い。昭和三十七年(一九六二)、串田孫一は青函連絡船で函館に到着北海道を一周する。網走は旅の後半で五月二十六日、串田は名寄から列車で中湧別まで出て、湧網線で網走に向かう。車中で能取湖や網走湖を眺め、能取岬をスケッチする。翌日斜里岳に登るため網走駅に下車、釧網線の列車を一時間ほど待つことになる。
   『――駅前の喫茶兼食堂へ行ってさっそくコーヒーをたのんだ。娘さんがコーヒー一ちょうと大きな声を出した。コーヒー一ちょうと叫ばれると味があやしくなるぞと思った。朝倉君は壁のメニューを睨んでフルーツ・ポンチを頼んだ。これも一ちょうである。
 このScallop Riceって知ってる?と私はテーブルの上のメニューを友達に見せて訊ねた。
 Scallop って何だったっけ。
 ホタテ貝さ。つまりホタテ・ライスだ。
 そこで私は前の旅で吹雪の美幌峠を越してここへやって来た時、この店でホタテ・ライスを食べ、大層うまかった話をした。――』
 串田はこのあと店のコックさんに、ホタテ・ライスの作り方などを聞いて、斜里に向かう。薄紅く染まった海岸線や知床連峰に熱中して、ついでに清里で泊まろうと、清里駅に到着することが記述されている。

『網走獄中記』村上国治(昭和38)

 串田孫一が網走駅にやって来た翌年、白鳥事件の村上国治が札幌刑務所から網走刑務所に移送されてくる。
   『終着網走駅におりたら、凍った舗道に、雪がふりしきっていた。これが網走での初雪とのこと。十一月二十八日の夕方、日はもうとっぷりくれ、町は暗かった。じゅずつなぎのまま刑務所のバスにのせられ、走る。――』
 受刑者としての網走の印象は特別のものだろうが、<町は暗かった>というのは、たしかだった。駅前市街と繁華街が離れているせいもあるが、昭和三十年代、四十年 代までの駅前は、終着駅を思わせるように暗かった。

『もう網走は遠くない』高橋揆一郎(昭和〇年)

 近年になっての駅前の話では、駅前のホテルに宿泊したことのある高橋揆一郎が、「もう網走は遠くない」(北海道味と旅)というエッセイで次のように書く。
   『――いつのことだったか、もう日記をめくるまでもないが、文化講演会の名目で訪れたときは、駅前のホテルに投宿した。講演のあと、ホテルの支配人さんも参加してある居酒屋で地元の青年たちと文学談議に花を咲かせた。
 飲むばかりでろくに食わずに深夜のホテルに戻ってみると、部屋にはビールと寿司の夜食がひっそりと用意されていたのである。思わず手を合わせた。支配人さんの何と男っぽくて寡黙な温かい心遣いだろう。これは絶対に忘れない』
 この支配人というのは、網走で創作活動を行っている吉阪市造さんであった。

『オホーツク殺人ルート』西村京太郎(昭59)

 ところで、「網走駅」と表示する木製の看板が、かつては何度も盗難にあったことがある。網走の文字は刑務所と結びついて、盗難よけになるのだという噂があった。その網走駅という表示の文字が、縦書きに書かれているのには理由があると、西村京太郎は「オホーツク殺人ルート」の中で書いている。
   『由美が、今まで思い浮べていた網走は、北の果ての町、流氷の町である。それに、網走刑務所のイメージがつきまとっている。
 しかし、実際の網走の町は、七月という季節もあるが、太陽がさんさんと降り注ぐ明るい町だった。
 網走の駅は、網走刑務所を意識しているのか、赤レンガのところに、タテに「網走駅」と書かれている。
 横書きでない理由は、網走刑務所を出所した人間が、この駅から乗って、社会に出ていくので「まっすぐ生きて欲しい」という願いがあるせいだという』
 タテ書きの理由はどこから出た話なのだろうか。とにもかくにも、網走は網走刑務所と関わってとらえられているのである。

『旅は自由席』宮脇俊三(平成3 )

 網走駅の0番線ホームのことを書いているのは、旅行作家の宮脇俊三である。
   『――私が一番好きだったのは網走の0番線で、ここには湧網線が発着していた。――はじめて湧網線に乗ったのは昭和四五年の二月だった。網走駅の〇番線に氷雪をこびりつかせたディーゼルカーが一両、ポツンと停っていた情景を忘れることができない。そして、渺々と荘厳にして非情に広がる流氷の景観は、さらに忘れることができない。それは、あの氷の海のなかに身を沈めたいとの死の誘惑を感じさせるほどであった。
 湧網線は昭和六二年三月に廃止になり、網走駅の0番線も消滅した』
 鉄道旅行作家の宮脇俊三の作品には、他にも網走にふれている部分が多い。


つづく

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