網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  


南ケ丘高校旧校舎

 


荷馬車に魚を積む

 

 

 

 


魚市場のあった場所

 

 

 


魚市場の見える網走漁港

 

 

 


網走川の岸壁

 

 

 


クジラの解体

 

5.懐かしい網走港と魚市場の風景

『北海道行脚日記』若山牧水(大正15)

 歌人の若山牧水が網走を訪れたのは、大正十五年(一九二六)十月である。この時網走中学校(南ケ丘高校)と網走高等女学校(向陽高校)で講演をしている。その帰りにアキアジの山を見ている。
   『待たせおきし自動車にて町の高等女学校に赴き、講演した。その帰途、あばしり河口に積まれたあきあじの山を見た。秋味と書くなるべく、鮭の事である。味もよく、とれる事も今のものが、水辺に山と積まれて〇る有様は鮮かにもまた壮んなものであった。鮭といへばこちこちと干乾び埃まみれに吊り下げられたものとのみ思い易きわたし逹にとっては確かに大きな驚きであった』

『オホーツク海と日高の海』草野心平(「旅」・昭和25)

 詩人の草野心平が網走へやって来たのは、昭和二十五年(一九五〇)の五月末らしい。らしいというのは、心平が「オホーツク海と日高の海」というエッセイを書いたのが昭和三十年で、書き出しに「五年前のその時」とあるからだ。前夜札幌をたって、夜中の二時過ぎに網走に着き、橋南旅館に泊まった、と書いている。
 早朝、同行の更科源蔵と園生裕一郎を誘って、魚市場に出かける。
   『魚市場といった大げさなものはなく、道路には荷馬車が並び、篭に入れられた鱈が船から運ばれ馬車に積まれた。鈍く光っているどろんとした鱈はいかにもオホーツク的である。道路に面してチクワの工場が並んでいた。働いているのは大部分が女たちで、生ぐさい臭いが工場の中から押し出されてくる。毛の長い大きな犬が歩いている。ハシブトガラスが重たい空をゆさゆさとんでいる。船のマストにとまっているのもいるし、コンクリの岸壁を歩いているのもいる。港というよりも海にそそぐ川が港になっている。
 その川沿いの岸壁を海の方に歩いてゆくと十数人の男たちが釣をしていた。どのビクにもウグイが相当はいっている。見ていると釣れる、釣れる。鉤が口ではなく尾鰭ちかくの下っ腹にひっかかって釣りあげられたものもいた。これには驚いた。こんな釣なら私もしたいと思ったが、十時の列車で私たちは網走を去らなければならない。――』
 昭和二十年代の網走川岸壁風景を彷彿させる心平の文章だが、これには副題がついていて「二つの地の果て」とある。札幌まで講演に来た心平が、仲間と別れて網走に来て、釧網線で釧路に出て、帯広から日高の襟裳岬に向かうのである。網走を見て更にこれからも未知の風物を見られる幸せを、「――ザマア見やがれと言いたいほどうれしかった」と書いている。それにしても、網走はまだ<地の果て>だったのである。

『網走まで』三浦哲郎(「マダム」・昭和40)

 三浦哲郎は、屈斜路湖と美幌峠を見学して網走に入って、街中の古いホテルに泊まる。そのホテルが、港が近いせいか蝿が多いのに驚いてしまうと書いているから、夏のことだろう。草野心平が書いた荷馬車の風景が、昭和四十年にはまだあったのである。
   『窓ぎわに立つと、むかいの消防署の火の見櫓のむこうに、漁船のマストの林が見える。白く巾ひろい道には、淋しいほどに人通りがすくなく、ときおりシャンシャンと鈴の音をひびかせて荷馬車が通った。荷台は、それ自体大きな木箱になっていて、港の方から出てくる馬車は、その荷台の箱にあふれるほどの魚を積んでいた。そしてどの馬車も、その魚の上に先がフォークのようになったスコップを突き刺したまま通っていった。
「あの魚は、スケソウダラです。」女中がおしえてくれた。「カマボコにするんですよ。カマボコを作る工場は、たくさんあります』

『オホーツク海岸をゆく』田宮虎彦(昭和45)

 田宮虎彦も、魚市場付近を書いている。昭和四十五年(一九七〇)頃の活気のある網走川岸壁風景が、そこにはある。
   『網走の町は淋しいさいはての町どころか、むしろ活気のある漁業の町であった。夕方、町に帰りついてたずねていった港の、魚市場の岸壁には帰港した漁船から、北の海の魚であるニシンやスケソウダラが荷揚げされていた。マダラやエビやカレイなどがその中にまじっている。漁船は、終日、つぎつぎに港に帰って来ているのであろう。
――朝の網走大橋は、早い朝の日差の中を、そんなトラックや荷馬車、満員のバス、急ぎ足の通学生や通勤の人たちが忙しそうに行きかっていく。私は、小一時間、そんな大橋を見下ろしていた。若い女性は東京とかわらないミニを着ている。そこにはさいはての町などという淋しさ、わびしさはひとかけらも感じられない明るさが溢れていた』

『なぜか、アバシリ』永山則夫(昭和〇)

 網走の魚河岸風景を書くとき、永山則夫という特異な作家について述べねばならない。
   『――三兄と一緒に港に行き、陸揚げされた魚群の後に落ち残るおこぼれを、よく岸壁の上を歩きながら拾ったものだ。それはN少年の掌ぐらいの魚だった。三兄は、その魚を捨てろというのだが、N少年はそのくらいの大きさの魚しか拾えないのだ。三兄はしまいには諦めたように何も言わなくなった。そして三兄は一人で黙々と魚を拾って竹篭に詰めていた。――』
 Nというのが作者の永山則夫である。親に捨てられるように網走に置かれた四人の子どもは、ひと冬を網走で過ごした。いちばん年下が五歳のNであった。「捨て子ごっこ」という作品に書かれている兄弟四人の生活は、岸壁から拾って来た魚を、味噌汁の中に入れて食う。拾って来た薪でたまにドラム缶の風呂に入る。母の置いて行った百円札五枚が無くなると、兄たちは学校を休んで鉄屑拾いや盗みをするようになっていくのである。
 永山則夫は、昭和二十四年(一九四九)網走市呼人四一二番地に生まれ、五歳まで網走で過ごした。後に「連続射殺事件」を起こし二十数年獄中生活を送った後、死刑が執行された。獄中で多くの作品を執筆発刊し、作家として評価された人である。永山は網走生まれにこだわって、作品の中で網走の街やオホーツク海をしばしば描写している
 網走を訪れ、港や魚河岸に足を運んだ作家はまだまだ多いと思われる。歌人俳人の作品としては、小田観蛍の次の短歌が残されている。
  鯨の血解剖台にながるるや日を紅にして降りくる驟雨
 捕鯨基地でもあった網走港には、最盛期には年間百頭を超えるクジラが捕られ、それを処理する解体場があって、いつも見物人で賑っていた。小田観蛍の歌も解体場での光景であろう。現在、港町三一番地には「捕鯨基地跡」の史跡標柱が建てられている。


つづく

indexへもどる  トップページへ