網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  

  

  


金田一京助歌碑

 

 

 

 


モヨロ貝塚館

 

 

 

 

 


河口で釣りをする人たち

 

 

 

 


オホーツク海と知床連山

 

 

 

 

 


夏の能取岬

 

 

 

 


モヨロの森

 

 

 

 


帽子岩

 

 

 

 

6.モヨロ貝塚とオホーツク海

金田一京助歌碑(昭和23)

    おほつくのもよろのうらの夕凪にいにしよ志のび君とたつかな

 網走では川向いと呼ばれる北二条東二丁目の、モヨロ貝塚の一隅に建つ金田一京助の歌碑は、余りに道端に近いため見落とされがちである。言語学者金田一京助博士は、戦後モヨロ貝塚の発掘調査の指導で、何度か来網された。千五百年ほど前、オホーツク海沿岸に定住していた氷海の民オホーツク文化人は、今も謎の多い先住民族である。その最大の遺跡モヨロ貝塚の発見者が、米村喜男衛さんであった。
 金田一京助は昭和二十三年(1948)には一か月余り米村喜男衛さん宅に滞在されたという。当時は食糧難の時代で、米村美登里夫人は近隣部落の農家をかけ廻って米や麦を集めた。鱈を買い求めて三平汁にしてもてなしたが、これが博士の好物でずいぶん喜んで食べていたという。
 古代をしのんで君と立つの<君>は、当然米村喜男衛さんだが、モヨロの発掘現場で更紙にさらさらと書いて米村さんに渡した。これはいい歌ですね。というと帰京されてから毛筆で揮毫されて送付されて来たものだと、生前の米村さんが語っていた。

『モヨロ遺跡と考古学』名取武光(昭和23)

 戦後まもなく出版されたこの本は、昭和22年に行なわれた、東大と北大のモヨロ遺跡発掘メンバーの名取武光が読み物風に書いたものである。子どもたちが「モヨロ少年発掘調査団」を結成して、モヨロ貝塚へ調査に出かける。その時の網走の街が描写されている。
   『今日はオホーツク海も静かでないでいた。沖に帽子岩が一つぽつんと浮かんでいる。砂浜には海水浴の脱衣場もたっている。市街をこえて南の方に、緑の桂ガ岡がつらなっている。その中に郷土館の赤い円い屋根が見える。海の反射のせいだろうか、気持ちよくあかるい平和な景色で、これが想像していた刑務所のある網走の印象だろうかと思うほどだった』
 子どもたちは、大昔の人たちもこの美しい自然と川と海の産物に恵まれたところに、村をつくったのだろうかと考える。
 モヨロを次のようにうたった句もある。
夏木立モヨロ貝塚あるところ高野 素十
今凍つる千古の凍の人の骨斉藤  玄
ほろびたる民を伝へて残る壕ふる雨の中行きて見たりき 松原 周作

このモヨロの海岸が、中野重治の詩作品「北見の海岸」ではないかという説がある。
   沖合はガスにうもれている
渚はびっしょりに濡れている
その濡れた渚に黒い人かげが動いている
黒い人かげは手網を提げている
黒い人かげは手網ををあげて乏しい獲物をたづねている
黒い人かげは誰だろう
黒い人かげはどこから来ただろう

 と始まる詩は、大正十五年(一九二六)四月に発表されたもので、中野が大正十一年に来網した時、「網走に滞在中原生花園かサロマ湖のほうに足をのばしたのであろう」(木原直彦さん・前北海道文学館館長)とされている。
 これを、「北見の海岸」の成立は、網走川左岸のモヨロ海岸であったと考えられると述べている人がいる。福井市在住の定道明さんが「北帰考――中野重治の場合」という論文で考察しているのである。
 中野重治が大正十一年に来網して「泊まり」という作品を書いた同じ時期に「北見の海岸」が書かれているが、当時この地方は「北見の国」であり、網走には北見町があった。中野の認識は、オホーツク海岸ではなく北見の国の海岸であったというのである。詳細な論述をここでは紹介できないが、詩句の<黒い人かげ>はアイヌ人であると推測している。当時網走町には三十一戸、八十八人のアイヌ人がいて、大正末期には急激に減少していると述べている。
   獲物はいつも乏しかろう
部落はさだめし寒かろう
そして妻子のあいだにも話の種が少なかろう
そして彼の獲物は売れようか
彼の手にも銭が残ろうか
いいえ彼は黙ってここの海外を北へ北へと進むだろう
手網をさげて
妻子を連れて
そして家畜も連れないで
  ―――――
 中野の詩はこんなふうに続いている。「北見の海岸」という作品は<黒い人かげ>の生活、孤独、運命を中核にしているのだが、そこからアイヌ人であることが想像できるという。中野は網走に到着する前に、旭川を訪れ移住した身内の滅亡を目の当たりにしてきた。この体験から<黒い人かげ>を、理不尽な滅亡のアイヌ人に重ねたのでないかというのが、定道明さんの考察である。

『北海道行脚日記』若山牧水・大正15)

 モヨロつながる河口を、大正十五年に網走を訪れた歌人の若山牧水が歌っている。
     ひとつらに並び流るる網走のその川口の真白きゴメは
 行脚日記には次のような部分があり、ゴメの歌は河口の散策から生まれた。
   『十月十二日。
 今朝は青啄木鳥はわたしのガラス戸を訪れて来なかった。独りひそかに起き出で、耳を指す寒さの中を河口の方へ散歩した。何といふ鴉の多さぞや、自分の脚もとから見はじめて幾羽となく幾十となく、ともすれば幾百羽ともわからぬほどの鴉が其処に見られた。北海道の鴉は人間よりも大胆で狡猾だと謂はれてゐるさうだが、まったく我等の臍にでも来てとまりさうな眼つきしてゐるのである。子供はよく彼等から手に持った菓子や果物を奪はれるといふ。いま彼等は引潮の河岸に群れて盛んに餌を争うてをる。餌とそれを求むるものとの数量が一致せぬため、到る所に争闘が行なはれてゐるのだ。その黒い騒がしい群を離れて静かに河心に浮かび、流れのまヽに徐ろに流れてゐる白色の鳥の一群があった。ごめ(鴎)である。時にやヽ曲ることなどあるがずっと一列に連って少しも乱るヽ事もなく、次第に河口の方へ流れて行った――』
 この時、牧水はもう一首の歌を作っている。
   あき味の網こそ身ゆる網走の真黒き海の沖つべの浪に
 これは、網走中学校(南ケ丘高校)を講演を行った後に、学校裏からポンモイの海を見た時のものである。日記は次のように書く。
   『講演を終へて我等は学校の裏の高みに登った。またもや降りだした微雨に濡れたもろこし畑の中を歩いてゐる我等を見附けた教室内の生徒の一人が、「ヤ、牧水先生が彼処を行くぞ」と叫ぶと二階も階下も、こちら向きの窓といふ窓にいっぱいに黒い頭が突き出て、わァわァといふ騒ぎである。わたしが帽子を振ると彼等もノートが書籍かを振り廻してこれに応じた。
 岡の真下は海であった。そして右手に遠く斜里半島が眺められた。今日の空合いで一層黒みを深めて見ゆる海のやヽ海岸よりの沖に二た所ほどかすかに白い波を上げてゐる所があった。これが即ち先刻見て来た秋味のかけられた所であったのだ』
 講演を行った網走中学校は、牧水にとって殊に思い入れがあった。以前に網走中学校の教師だった神原克重は牧水の社の同人であった。神原は網走中学校の校歌を作詞した歌人であった。父の病気から愛着のある網走を離れていったのだが、牧水が旅に立とうとする数日前に、千葉からわざわざ訪ねて来て、「どう呉々も彼の中学の生徒たちによろしく伝えて呉れ」と伝言したのたと、牧水は書いている。
   『講堂に集まって粛然と立ってゐる生徒たちの前に、いまわたしは彼のこの伝言を伝えようとするのである。そして妙に舌こわばり胸迫るのを覚えた』
 牧水の他にオホーツク海を歌った作品がある。なお、与謝野晶子は昭和六年(一九三一)に来網しているという。
オホーツクの海面を見れば死の如くただ黒ぐろと知床の山 与謝野晶子
蟹を下げきたりまた赤き魚をさぐ網走は夏の夜となりつつ 二宮 冬鳥
浜川にうぐひ釣る子のうしろには照りつく真日の貝殻の山 川田  順

『網走まで』三浦哲郎(昭和40・マダム)

 昭和四十年(一九六五)来網の三浦哲郎はオホーツク海を初めて見る。
   『網走港では、港の入口の帽子岩まで弓なりに伸びている防波堤の上から、はじめてオホーツク海をみた。曇っていたせいか、海の色がダークグレイで、思いがけなく凪いでいた。冬になると、流氷が押寄せてくるという扇形の浜は、ちょうど干潮らしく、波打際や楕円形の干潟にたくさんの海猫や鴉がひしめいていた』

『はじめて見た層雲峡から阿寒への道』倉橋由美子(昭和40・ 旅)

 同じく昭和四十年来網の倉橋由美子は、能取岬から見たオホーツク海を、次のように描写する。
   『すぐ足もとにはオホーツク海がせまっていました。冬になると天気予報でよく耳にするこの海は、仮死状態の生きもののように静かでした。うちよせる波の白い歯列ひとつみえない、ふしぎな海です。北方の暗鬱な海というイメージはまちがっていました。水はあくまで澄んであかるく、わたしの知っている南方の海の、くろぐろとうねり輝く精悍な獣のような潮の動きがありません。「ついこのあいだまで流氷がいたんです」と案内のひとがいいました。』

『オホーツク海岸をゆく』田宮虎彦(旅・昭和45)

 田宮虎彦は昭和四十五年(一九七〇)五月に来網しエッセイを書いている。
   『網走風景は思ってもいなかつた美しくおだやかな風景であった。網走の町へ走る道路は、網走湖から流れ出て、網走湖から流れ出て、網走の町でオホーツク海に流れこむ網走川にそっていた、それはどこかで見た風景に似ていた。その思い出の中の風景は、松江の宍道湖から中海へ流れ出る大橋川の水路の眺めであった。萌え出た草の緑におおわれた川堤の間を、雪融けて水量を増した水がゆったりと流れている。そのむこうのなだらかな低い丘が、やはりもう緑につつまれて、絵のようにという言葉のままにつづいていた』
 田宮虎彦にとって「心の中では、長い間、稚内よりも網走がさいはての町であった」それは、志賀直哉の「網走まで」の印象ともつれあって、心の底に定着してしまったと書いている。

『捨て子ごっこ』永山則夫(昭和62)

 永山則夫の作品には帽子岩が出てくる。獄中作家の悲しい帽子岩の思い出である。
   『セツ姉さんと言う二十歳ほど年上の長女が弘前の精神病院を出たり入ったりしていることも影響していた。セツ姉さんは網走で貧困と失恋のため発病したらしかった。
 ――遠くに帽子岩が見える。セツ姉さんが「あれは、ボウシワ、ボウシワ」と教えてくれことを記憶から出す。Nは、近頃目の前に現われなくなったセツ姉さんをまた思い出した。セツ姉さんのことを言うと、母たちに叱られることも思い起こした。「セツ姉さん」とNは呟いた。帽子岩は動かない。Nの心が動いて帽子岩が大きくなった』
 また、ノーベル賞作家の大江健三郎が、昭和三十五年(一九六〇)に網走を訪れている。この時のことは「エヒノコックスとギリアク人」(旅・昭和35)というエッセイに書いている。「僕は網走周辺のギリアク人とオロッコ人とに会いに行ったのだ」と書き、少数民族への思いを書いているが、網走についての描写は見当たらない。この時、大江は二十五歳の時であった。少数民族については「幸福な若いギリアク人」などの短篇も書いている。


つづく

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