網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  

  

  


網走の街とオホーツク海

 

 

 


当時の網走市街

 

 

 

 


大正時代の網走市街

 

 

 

 


流氷の中を網走港へ

 

 

 

 


永山則夫の著作

 

 

 

 


戸川幸夫文学碑
生田原町文学碑公園

 

 

 

 


戸川幸夫の「オホーツク老人」

 

 

 

 

 


向陽の伝説の洞窟

 

 

 

 


ポンモイ(小さな入り江)の海

 

7.網走の印象と街の描写

 「網走まで」の作家志賀直哉は、結局一度も網走を訪ねなかったが、明治以来現在まで多くの作家が網走を訪れているに違いない。というのは、小説や詩歌、紀行などで網走に触れている作品はほんの少しであり、またそれが私たちの目に止まるのは一部であろうと思われるからだ。
 網走の街はどんなふうに作家たちにとらえられているだろうか。作品の中から断片的に<網走の印象>を取り出してみよう。
<町がいかにも落ついて、暖かくまた穏やかに見えた>というのは、若山牧水である。(大正15・一九二六)
<森と湖に囲まれた町>と言い切るのは渡辺淳一。(昭60・一九八五)
<網走は矢張荒涼としていた。けれども予想していた程荒涼としてはいなかった>というのは、詩人の草野心平。(昭30・一九五五)
<網走風景は思ってもいなかった美しくおだやかな風景であった>と書いているのは田宮虎彦。(昭45・一九七〇)
<網走はあかるい町でした>と驚くのは倉橋由美子(昭40・一九六五)
<日常から切り離された雰囲気が魅力的>と書くのは歌人の俵万智。(平8・一九九六)
 歌集「サラダ記念日」でデビューし、以後活躍の目ざましい俵万智は、「恋の歌 100首」の中で、網走の旅を歌った宮英子の一首<秋深き網走の旅つづけゐむ夫の孤独を妬めり我は>についての解説の中で、自分の網走の印象を述べている。
   『寒い時期に、私も網走を訪ねたことがある。かつての刑務所などを見学した。ここでは、脱獄に成功したとしても、厳しい自然が行く手を阻んでいる。その迫力は、連れてこられた人を絶望的な思いにさせることだろう。現在は観光都市ともなっているが、なにか日常から切り離された雰囲気が魅力的だった。オホーツク海の、深く果てしなくそして厳かな表情も、印象に残っている』
 網走に住む私たちは余り意識しないが、刑務所、流氷で代表される非日常的な雰囲気と風物を持つ土地であることは間違いない。
 草野心平は、予想していたほど荒涼としていなかった、と書いたあとで「私欲を言えばもっ荒涼とした網走を見たかったのだけれども、そんなことを言ってはしかられるだろう。第一そうした概念に溺れることが先ず間違っているのだ」と述べている。

『若山牧水全集第八巻』若山牧水(大正15)

 網走と京都が似ていると書いているのは、歌人若山牧水である。牧水は大正十五年の十月十日夜、喜志子夫人と共に野付牛町(北見)から網走に到着し、翌十一日に桂ケ岡に登り、網走の町を一望した。
   『勞れたりとて一人別れて妻は宿屋に帰り、我等は町を横切って桂が岡といふに登った。此処からは網走の町が一目に見渡された。北口が海に向かって開いてゐるほかは、三方すべてゐこうした岡に取り囲まれた港町である。三方の岡はそれぞれに木深くてみなうすらかに紅葉してゐた。その岡の具合か、町がいかにも落ちついて、暖かくまた穏かに見えた。そしてその中に静かな寂びがあった。「うみはあるけど、何となく京都が思ひ出されますね」とわたしが言うと、渡邉氏は大いに驚いて「イヤ、前にもさう言った人があります、さう似てゐますかね」と言ふ。すると他の一人は、「先刻自動車で川を挟んで見た山の景色は嵐山に似てゐると言はれてゐますが、さうですか」といふ問である。それはともかく、この北の果ての古びた漁港と日本の舊都と何處か似てゐるところなど面白く思はれた。』
 この後、牧水は桂ケ岡を下りて、小走りに歩いて網走中学校(南ケ丘高校)に出かけて講演を行う。その講演がどのようなものであったのかは、既に不明である。

『網走港』長田幹彦(大正14)

 網走駅に降り立った<私>は、網走の停車場前から、宿引きの人力車にのって中通りを松井旅館に向かった。当時の網走の町の雰囲気がくわしく描写されている。
   『その車はやがてがらんとしただゝ広い一条道路を驀進に駈けはじめた。道の両側には低い北海道式な西洋まがひの家並が建ち続いて、それでも何処か町らしい輝きをもった店明りがところどころの店口から疎らに街路の面にこぼれていた。異様な店飾りや、硝子戸で閉ざされた家々の出入口を見ると、そのなかにはどんな住民たちが隠れているのだろうと、異国へ来た人のやうな想像が湧いて、一人二人づつぽつりぽつりと往来している人の影に出逢ふ度に私は張りつめた心持ちでその後姿を凝視せずにはいられなかった。そして通りの突当りのところにはほの白く氷結した海面が僅かばかり隠見して、そのうへには流氷に圍●された大きな汽船の姿が家並より高く黒々と薄闇がに描かれていた。そして吹く風はなくても、ぢっと肉身に食い入る寒気は針よりも鋭かった』
 季節外れの流氷に閉じ込められているのは、木材積取船の「弥彦丸」だが、四月中旬の寒さはきびしいものであったらしい。
 松井旅館は、現在の南四条東四丁目にあった一流旅館である。長田幹彦はここに四日間滞在した。
   『松井といふ旅館はその通りをもう少しで行き詰めようと云ふ右側の処にあった。新しい二層楼の堂々とした建物で、屋上に物見台のついた様子などは全く四辺の町と調子を破るものだった。店口へ車を引き込むと泥寧の路面はもう堅く凍っていて、思はず足を降ろした私は危く滑り転けようとした』

『なぜか、アバシリ』永山則夫(昭和55)

 獄中作家であった永山則夫は「なぜか、アバシリ」「捨て子ごっこ」などの作品で網走の思い出を描き出している。
   『‥‥思い出す‥‥強い早春の潮風が、網走にいた頃の記憶を心の底から引き揚げた。五歳の頃、中学二年の三女明子、小学六年の次男忠雄、同じく三年の三男保の四人で網走にいた。四人で港の凍るひと冬を過ごした後、春に板柳にいた母と次女の久江と姪の洋子たちに合流したのだ』
 『捨て子ごっこ』に書かれている兄弟四人の生活は、岸壁から拾って来た魚を、味噌汁の中に入れて食う。拾って来た薪でたまにドラム缶の風呂に入る。母の置いて行った百円札五枚が無くなると、兄たちは学校を休んで鉄屑拾いや盗みをするようになっていく。
 岸壁の海が凍結して落ち魚も拾えなくなった兄弟は、「ノリを、捨てよう」する。兄の一人がN(則夫)の手を引いて、川向いから新橋を渡り、駅に来るが、Nが離れないので、網走川に添って歩き網走橋に着く。兄はNに干し魚を三匹与えて駆け出して行く。
   『‥‥Nは、立ち疲れて来た。彼は橋の欄干に両手でぶら下がり、暢気に遊び出した。――長い間待ったNは、欄干に背もたれし出した。保は迎えに来ない。知っている顔の人たちは誰も来なかった』(捨て子ごっこ)
 これらの作品には、網走の港、造船所、木材工場、網走支庁、向陽病院、土屋工業など、主に川向いの街と場所が登場する。それは永山則夫が獄中で調べたものだろうが、幼い時の切れ切れの記憶がつなぎ合わされているように見える。

『知の旅への誘い』山口昌男(昭和〇)

 美幌町生まれで、網走中学(南ケ丘高校)で学んだ文化人類学者の山口昌男は、「知の旅への誘い」で「私は、北海道の東北部の小さな町で生まれ、育った」と言ったあと、最初の旅の記憶は汽車に揺られての網走行きだったと書く。
   『網走の町で、最も魅惑に満ちた場所とは何処であったろうか。それは、最近鬼籍に入られた米村喜男衛さんという、昔理髪店を経営していた人が創設し、管理していた「郷土博物館」である。この建物自体、木造平屋を見慣れている子供に、どこか異郷を思わせるドーム型の屋根を持つ何か別のものの「しるし」であった』
 博学で知られる山口昌男の知的好奇心の旅が、網走市立博物館を出発点としている ことは興味深い。

『オホーツク老人』戸川幸夫(昭和35)

 網走市役所前の、古びた網走市立図書館が、名作『オホーツク老人』に出てくるのを知っているだろうか。
 戸川幸夫の「オホーツク老人」は秘境知床のブームをつくり、映画「地の果てに生きるもの」をつくり、一世を風靡した「知床旅情」の歌を生み出したバイブル的な作品である。物語は斜里町の知床半島を舞台にしているので、詳しくはふれないが、網走の街も関わっている部分がある。
 主人公である彦市の三男の謙三は、スケトウタラの漁に出て遭難死亡した。その時転覆した択捉丸が、網走市内の造船所で建造中に、謙三は網走市立図書館に通ったのである。
   『冴子は網走の図書館の貸出係だった。
 彼女の許に本を借りによくやってくる真面目な青年がいた。父親の云いつけで漁船建造に来ているのだと云った。
「父は北洋魚業を永いことやっていて大きな船団をもっていたんだが、今度の戦争で駄目になって‥‥父と二人してたとえ木造船でも造りあげようと思ってね」
と青年は抱負を語った。嘘ではないが青年らしい誇張だった。謙三がこの娘にどんな顔をして恋をうち明けたのだろう。二人の間はどの程度に発展していたのだろう』
 この女性は金野冴子というのだが、謙三が死んだあと、羅臼を回って番屋を訪ねてくるという話が挿入されている。彦市が亡き謙三を思う痛切な場面である。

『アイヌ伝説集』更科源蔵(昭和46)

 広い範囲で網走の文学を考えると、向陽の坂の途中にある地獄穴にもふれなければならない。道の改良工事で小さくなったが、この洞窟にはペシュイの伝説が残っている。網走市史のアイヌ語地名解によると「ペシュイは洞窟の意で、この洞窟を入って行くと、途中で道が左右に分かれていて、左の道をたどれば網走川の岸にあるペシュイの洞窟へ抜けるが、右の道を行くとあの世へ行ってしまうという。この洞窟は別にフーリシュイとも云った」とある。
 ただ、向陽の洞窟を指しているのか、水族館へ向かう道の岩穴なのか定かでない。それにしても、網走にとって数少ない伝説として、この物語は貴重なものだ。
 更科源蔵さんの「アイヌ伝説集」は次のように書く。
   『大昔、この海岸のピシュイの岩穴に、ヒウリという巨鳥が住んでいて、付近にある二つ岩の上に翼を休めていては、下を通る獲物を狙っているのを見かけることがあった。
 或る時のこと、この下を子供を負った女が、タンネシラリの方へ行くために通ったところ、突然ヒウリが現われて、アッという間に親子もろともさらわれてしまった。
 可愛い子供と妻をさらわれた父親は、部落の男五人と一緒に、人をも食うと云われている、エペタムという宝刀をもって、ヒウリがかくれたピシュイの洞窟に入って行ったが、途中まで行くと穴が二つに分かれていたので、三人ずつ分かれて進んで行くうち、一方の穴を進んだ人達は何物にもあうことなく、網走川のピシュイに出てきたが、エペタムをもって別の穴に入って行った三人の方には、どんな惨劇が行なわれたかしらないが、ついに一人も戻ってくるものがなかった。然しそれきりヒウリの姿も二つ岩に現われなくなった。
 それ以来、ピシュイの奥は地獄に通じている穴だから、入ってはいけないと言伝えられている。(美幌町 菊地儀之助老伝)』


つづく

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