網走文学散歩

1.天都山からの眺望
2.網走の印象は網走湖から始まる
3.文学作品の中の網走刑務所
4.終着網走駅の風景
5.懐かしい網走港と魚市場の風景
6.モヨロ貝塚とオホーツク海
7.網走の印象と街の描写
8.日本一雄大と書かれた能取岬
9.推理小説で描かれた網走
10.流氷の海に魅了される作家たち

  

  

  

  


能取岬と灯台

 

 

 


『雪と風と青い天』金子きみ

 

 

 

 


『オホーツク凄春記』山谷一郎

 

 

 

 


『旅を慕いて』木内宏

 

 

 

 


流氷の能取岬

 

 

 

 

8.日本一雄大と書かれた能取岬

『オホーツク海岸をゆく』田宮虎彦(旅・昭和45)

 日本の岬の中でもっとも雄大な岬というのは、能取岬というのは田宮虎彦である。
   『そんな木立の道の美しさから、不意に前方がひろびろとひろがって、広い台地に出た。そこが能取岬であった。
――私は、その日、自分の眼で能取岬を見るまで、能取岬がこれほど魅力に満ちた岬であることを知らなかった。また考えてもいなかった。私はただ能取湖へ行く道すがら、一つの岬を見るぐらいのつもりで能取岬をたずねたのであった。私は岬が好きである。だから、能取岬を通ることにかすかな期待を持っていた。だが、眼の前にひらけた能取岬は、私が日本で見た岬の中でもっとも雄大な岬だといえそうに思える。
 そこは広い広い台地で、灯台が一つだけぽつんとある。台地は放牧場で、まだ季節が早いため牛も馬も姿を見せていなかったが、それだけ、その広い台地はただ茫漠とひろがっていた。
――その広い台地は、六、七十米の断崖の上にそそり立っていた。崖ぶちにわずかにつくられている柵から崖の下の海岸を覗くと、眼の下に広い海蝕棚がひろがり、ウニを漁っている数人の人の姿が小さく見えた。燈台のあるころは、そこだけさらに海に突き出ていて、その断崖の裾は深く波にえぐられている。遠く能取湖の砂州が見える。そしてオホーツク海が芒洋とひろがっているのである』
 田宮虎彦の文章は、詳細に能取岬を描写する。そしてヨーロッパ大陸にあるロッカ岬を思い出している。ロッカ岬の雄大さがここにあるという。日本一の雄大さを能取岬が持っているという田宮虎彦の言葉は間違いではないはずだ。

『網走まで』三浦哲郎(「マダム」昭和40)

 芥川賞作家の三浦哲郎の能取岬は、
   『それから能取岬の断崖から吹き上げてくる海風のつめたさ。岬の草原に放牧してある馬の群れにカメラをむけていたTさんは、ここにくると、とたんにくるりと、カメラではなく尻をむけてしまった。全く木枯しのようなつめたい風だ。みているうちに、海霧がするすると海岸線を白く塗りつぶしてくる。沛然と雨がきた』

『はじめて見た層雲峡から阿寒への道』倉橋由美子(「旅」昭和40)

 倉橋由美子の能取岬は
   『能取岬は個人所有の牧場で、柵をぬけていくと、黄色いセンダイハギが咲き乱れており、高さおよそ一〇〇メートルの岬には、黒白横縞の、ちょうど野球選手のストッキングのような灯台が立っています。岬の下の岩礁はアザラシ(ゴマフアザラシ)の群棲地です。――』
 能取岬の草原に立つと、網走の街でばっちゃんの愛称で呼ばれている中川イセさんを思わずにはいられない。今は市営牧場になっている草原は、かつて中川牧場であった。

『雪と風と青い天』金子きみ(昭和42)

 『雪と風と青い天』は、中川イセ(本名イセヨ)さんの一代記である。山形から娼婦として網走に来たイセさんは、中川卓治と所帯を持ち樺太に渡るが、苦闘の末再び網走に戻る。
   『網走市街から二里半の能取岬の中川牧場は、牧夫にまかせて荒廃していた。父親に迎えられた親子三人は、人心地を取り戻す最良の環境として、その建て直しに当たったのである。百五十町歩の牧場のほとんどが原生林で、牧柵を越えて樹海をどこまでも進むと能取湖に出る。――』
 今は樹木の全くない草原だが、金子きみが書くように、牧場のほとんどが原生林という風景が広がっていたのだろう。
   『イセたちの住みついた牧場の一方はオホーツク海に面し、突端は絶壁で、絶壁の上は絶えず潮風にふるえている草地だった。みじかい草をしたがえて、燈台が立っている。燈台守りのひとり暮しの老爺が、牧場の彼等の隣人だった。隣家にぼた餅を届けに行くのに半里馬をとばさなければならない。――』
 中川イセさんは牧場経営に成功し、やがて網走市議会議員として活躍し、名誉市民になる。網走の街では、バッチャンの愛称で呼ばれるこの人を知らない者はいない。

『オホーツク凄春記』山谷一郎(昭和〇)

 地元作家の山谷一郎も中川イセさんの半生を描く。
   『能取の山道は、抜けるような蒼い空の下を羊腸とくねり、オホーツクの海原はるかには、知床の連山が紫にかすんでいた』
 中川イセは夫の卓治と岬の牧場で暮すのだが、岬の美しくもきびしい自然が描写されている。
   『灯台の崖下から吹き上げる潮風が一日ごとに強くなり、牧場の草が茶褐色に変わって、はるか洋上に横たわる知床連峰の頂が美しい冠雪に輝き始めた』
 まもなく流氷の季節を迎えようとする岬である。イセは
   『能取りの牧場は、景色はええ。空気はうまい。米は獲れねえが、いも、かぼちゃ、とうきび、豆、なんでもずっぱり獲れて、天国だ』
 というのである。

『旅を慕いて』木内宏(平成 6)

 冬、能取岬は流氷の見場所になる。
 朝日新聞記者で作家の木内宏は「旅を慕いて」の一話に<流氷伝説>を書いている。木内は女満別から網走に入るとまっすぐ能取岬に向かう。
   『灯台の手前で車をおり、膝まである行きをこいで崖のきわまで行った。見渡すかぎり流氷で埋まっていた。夕日があたる部分は明るく、そうでないところは青みをおびた薄ねずみ色の影をひいている。岬からは巨大な一枚板に見える流氷も、じつは無数の氷塊から成っているらしい。氷塊が衝突と合体を繰り返すときに生じる撓みやねじれは、低い山脈のように走り、はるか沖合で空と接している』
 木内宏の書く<流氷伝説>は、千数百年前のオホーツク人の推理である。能取岬からオホーツクの狩猟民の姿を見る。
   『雲の切れ間から夕陽が遠くの氷原を照らしていた。
 ふと、そこに海獣狩りをする男らの一群が、赤々と浮かび上がる光景を想像した。流氷の海に来ると、いつも彼らの影を見ている。目には見えない人間の営みの跡から、視線をそらすことができない』
 オホーツク人にとって、この岬の自然は過酷なものではなく、北方の祖先の地へ向かって突き出している希望の陸地だったのではないか。
 歌人、俳人の多くも能取岬を訪れて作品を残している。
 水原秋桜子は、昭和三十八年(一九六三)六月に網走を訪れた。この時秋桜子七十一歳、ただ一回の来道だった。

    薫風や海豹の頭の濡れしほど

 そのほか、著名作家の次の作品がある。
  流氷や風の呵責の能取岬 石原八束
  吹きつのる雪の行方や能取岬 深谷雄大
  眼下に氷ひろごる能取岬の潮一筋の涯また白む 平野 香
  北を恋い北に憑れて能取路をひたはしるわれかきさらぎ二日 加藤克己


つづく

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