未知への興味

 私には子供の頃から土いじりと穴掘りに縁があった。国民学校では防空壕を掘り、中学ではグランドの造成でモッコを担ぎ就職した先が土建会社であった。だが現場から離れて二十余年、再びスコップを手に穴を掘ることになった。それは未知への興味から始まった。性格的に好奇心が強く何にでも興味を持つ愚かな者の心理であった。
 網走に『歴史の会』というサークルがある。平成13年の秋、新聞にトーチカ掘りのボランテアを募集する記事が掲載された。そこでトーチカに対する興味が湧き代表である菊地慶一さんに参加を申し込んだ。何故トーチカに興味を持つのかと言うと戦争の遺産であるという事と、どのような構造になっているのか調べてみたいという元プロ?の好奇心からであった。
 平成13年10月2日、発掘前夜のことだった。家族に明日トーチカを掘りにゆくと言うと「トーチカって何さ」と妻が怪訝そうに聞く、彼女はトーチカを知らなかった。そこで私はトーチカの説明をするが妻は宝捜しと勘違いをして次のように言う。「お父さん埋蔵金が出たらどうするの」と。「埋蔵金」私は彼女の真意が分からずに聞き返した。すると「テレビで時々やってるしょ、いろいろな埋蔵金捜しをさぁ」と答える。唖然として彼女の顔を見た。好んで見るテレビ番組に洗脳されているなと思った。
 翌日、13日の午前9時に鱒浦にあるドライブインの駐車場にボランテアの人たちと歴史の会の会員が集まった。菊地代表の説明を聞き早速、現地へと向かう。北見や美幌、津別に網走と各地から参加した人々を見ると上は80歳の高齢者から下は中学生まで巾広い年齢層だった。
 トーチカは駐車場から徒歩で十分ほどで小高い丘の雑木林の中に静かに眠っていた。笹藪をかきわけ現地に着くと総勢二十名のトーチカ探査隊は発掘を開始した。笹や雑木の根が固くトーチカをガードし我々に渡すものかと邪魔をする。どうにか邪魔なものを排除するが肝心の入口は、とうとう発見出来なかった。肌寒い日だったが参加した人々の額には汗が流れていた。
 解散する時、若者が言った言葉が印象に残った。「夢は次回まで残しておきましょう。夢の続きを楽しみに」と。その通りだと思った。

監視台へ進入

 10月17日、二度目の探査が行なわれるが参加者は前回よりも若干減っていた。だが皆、意気軒昂で今日こそ入口を発見し全員がトーチカに入ろうと土とコンクリートに挑んだ。だがトーチカは我々の進入を頑とし拒む。止むなく採光口と思われる部分を少々壊すことになった。
 トーチカの上に登った体格の良い男性がハンマーを振るい監視台の採光口の周囲を攻撃する。年配の人だがハンマーを軽々と振り回す。以前は同業者だったのではないかと思った。何人かが交代でハンマーを振るった。段々と採光口が広がり人がようやく入れる穴となった。そこで菊地代表を先頭に監視台の内部に進入した。
 内部は二段になっていて二畳ほどの監視台と25cmの段差で一畳半ほどの床面積だった。側壁と天井のコンクリートは半世紀を経たとはとても思えぬほど確りとしていた。そこから階段が地下に向かい続いていた。
 階段と監視台の壁と天井には構築の時に使用した型枠と支保工の残材が朽ちて堆積し足下が柔らかく無気味であった。懐中電灯の灯を頼りに手で朽ちた木を撫でると、表面は乾燥しポロポロと落ちる。監視台の内部には木の腐った匂いが充満していた。気のせいか少し息苦しさを感じる。更に背筋に何か冷気を感じた。ふと後を振り向くと誰も居なかった。代表は外へ出たようだ。トーチカ内部には私一人になっていた。
 階段の先端部分は土で埋まり何処まで続いているのか分からない。その時、背後から強烈な光が差し込んだ。後ろを振り向くとテレビ局のカメラマンと女性のレポーターであった。その人と短い会話を交わしトーチカの外へ出た。結局、我々が探す入口は判明されなかったが、推定でおおよその見当はついた。
 当然のことだが妻の期待した埋蔵金は見つからなかった。数日後同行していた記者から発掘の様子が放映されると電話で知らされた。妻は慌ててビデオテープをセットし知人に電話をしたのだ。余計なことをするものだと思ったが彼女はいっこうに頓着せず当然のことのように振舞い、その後、テレビを娘と共に食い入るように見ていた。
 少しの時間だが映像が流れる。すると「いやだ、お父さんの格好、刑務所から逃げる脱獄囚みたい」と娘が言った。すると妻もまた同感といった様子である。私は不機嫌になり二人に言った。「馬鹿、紋付や背広を着て穴掘りする奴は居ないぞ」と。一瞬、我が家は静かになった。トーチカ掘りにロマンを求めて何が悪い。ロマンを持たない奴に何が分かるかと腹立たしいが口には出さなかった。気まずい空気が漂う中で妻が録画したビデオテープを再生すると何と写し出されたのはトーチカとは無縁の他局のニュース番組だった。家族三人は唖然として画面をみていたのである。大体この程度のものなのだと機械に弱い妻の録画技術を評価したが言葉では言い現わさなかった。それにしても鱒浦のトーチカは謎が多い。土を取り除いた外観から想像すると、かなりの大きさと思われる。今まで発掘されたというトーチカより大きいのでは、と菊地代表が説明していた。
 通常のトーチカは地上部の監視台と地下部分の壕とで形成されているが別な作り方をしたトーチカもあるという。末発掘の、この鱒浦トーチカの地下壕部分はどうなっているのか、早く見てみたいと思うが探査は来年まで持越しとなったのである。

トーチカ調査

 いつの間にか私は『網走歴史の会』の会員になっていた。11月23日のこと、藻琴と浜藻琴のトーチカを調査することになった。目的は雪に埋もれる前にトーチカの見取り図を作成するためだった。当日、この時期としては珍しく穏やかで弱い初冬の陽射しが藻琴海岸に注いでいた。先ず浜藻琴のトーチカから計測が始まった。
 地下壕部分の外壁は大半が砂に埋もれていたがコンクリートは確りとしていたのであった。露出している監視台の外壁を計ると2×3m四方で内部は狭く1.2平方mほどだった。壁の厚さは90cmで監視の兵士が一人くらいしか入れない広さで、地下壕への連絡に使われたらしい木製の伝口管がコンクリートの壁に残されていた。
 地下壕部分は11平方m程の広さで仕切り隔壁が二カ所あり厚さは45cmのある。斜めに作られた入口の横には監視台へ登り降りする梯子の釘跡が残っていた。室内に畳一枚ほどの小部屋がある。ここが指令と通信のための場所と推定された。何故なら直接、被弾する危険が最も少ない構造になっていた。
 このトーチカは砂浜に構築された為か内部の湿気は少なく乾燥状態で風化した支保工(天井の型枠を支える柱)床に堆積していた。朽ちた木材の匂いも然程、強烈ではない。また天井部分には通気孔が二カ所あり監視台から続く伝口管も確認することが出来た。入口から南東方向に斜めに擁壁が作られ、そこが釧路街道(現在の国道244号)への通路だったと思われる。このトーチカの内部面積は監視台と地下壕を含めて12.9平方mの規模だった。このトーチカの近くの丘に藻琴神社があったが国道の工事で移転したのを記憶している。
 網走市史下巻に北浜から浜藻琴に至る丘陵に散兵壕が構築されたとの記録があるが通称タコツボと呼ばれた壕と思われる。これも国道工事で姿を消していた。藻琴のトーチカも構造は似ているが一平方米ほど浜藻琴より広い。銃眼口の大きさも、ほぼ同じで監視台も伝口管も残っていたが、通気孔は見当たらなかった。だが、このトーチカには一部、後年に手を加えたカ所が見受けられた。以上が実測に基ずく結果であった。
 1992年7月12日に歴史の会が調査した台町二丁目のトーチカの資料から再現した見取り図を見ると他のトーチカと異なる所がある。それは監視台も無く、隔壁も一カ所しか記録されていない。銃眼口は藻琴や浜藻琴とほぼ同じ規模で作られていた。ここを計測し記録された人は細かい部分まで計っていたのであった。
 だが、なぜ監視台を作らなかったのか、石の崖の中腹に構築したのか、その意図は謎である。敗戦当時、軍の機密書類の大半が焼却されたという。当時の資料も無く設計図もない中で今後の調査も、また推測で行なうより方法はない。(つづく)

次のページ

indexにもどる