その2

  トーチカとは

 トーチカのことを書くには材料のセメントとコンクリートから始めなければならないが、読む人には面白い話ではない。それを承知で書くのだから家族や友人からは変人だと言われても仕方がない。1824四年、イギリス人のアスブデンがポルトランド島産の石灰岩を砕き、微粉末にして過熱改良しセメントを発明し特許を取った。その後、セメントに砂利と砂を混合してコンクリートを発明し土木建築に革命をもたらし多様化されたが、セメントコンクリートの歴史は200年にも満たないのである。
 我国でも50年後の1875年(明治8年)からセメントが作られたが特許の関係でポルトランドの名称が使われた。主原料の石灰岩の品質がよく豊富な資源のため、急速に進む工業化の中でセメント産業は発達した。
 トーチカ(tochka露語)とはコンクリートで作られた小型の要塞のことを言い、戦略上、重要な地点に構築された攻防設備を持つ施設で構築するのは技術兵科に属する野戦工兵だった。コンクリートも他の兵器と同じように戦争によって進化していったと言っても過言ではない。岩石の強度を持つコンクリートを戦術家たちは見逃す筈はなくヨーロッパの各国は競って堅牢なトーチカを構築した。だが、コンクリートの強度を過信し失敗した例があった。それはフランスのナポレオン三世(1870年)の普仏戦争時代、プロシアとの前線で起きたといわれている。以前は塹壕を掘り土嚢を積み堡塁(砦)としていた。
 コンクリートをフランス語でベトンと呼びナポレオンはプロシアとの戦いで国境に難攻不落と言われた要塞を築いた。だがプロシアはドイツのクルップ社製の強力な大砲を使用して要塞を次々に陥落させフランスの第二帝政は崩壊した。この時破壊された要塞は無筋のコンクリートであり側壁と天井の厚さは50cmほどであったと言われる。コンクリート要塞の発達は砲弾の威力をより一層、強力にさせた。相手国の砲弾の威力など計算せずに築造させたナポレオン軍は構造計算を軽視したための敗退であったとも言える。
 日本でも1880年頃から要塞を構築し始め同年代には東京湾要塞や佐世保要塞、淡路島の由良要塞などが構築されたという。1904年に始まった日露戦争で当時ロシアが領地としていた遼東半島の旅順(現・中国)の203高地に、ロシア軍は8年の歳月と20万樽(推定2万トン)ものセメントを使い堅牢な要塞を構築し、司令部、砲台、弾薬庫、兵営を地下に設営した。
 遡ること9年前、日本軍は日清戦争(1895年)でこの旅順を簡単に攻略していた。だが、その後のロシア軍の情報を察知できなかつたのは日本軍情報部の怠慢で日本軍は想像を絶する苦戦を強いられたのだった。

戦争とトーチカ

 203高地のロシア軍の要塞は頑丈を極め攻撃する日本軍の砲弾が当たってもびくともしなかった。さらにロシア軍は頂上に作られた多数のトーチカの銃眼口から最新鋭の機関銃で狙撃し、山麓から集団攻撃をかける日本軍に多大な損害を与えた。機関銃などを見たことのない日本軍兵士は無知な指揮官のもと、ただ、ひたすらに山頂を目指したのである。完全な作戦の失敗であった。この203高地で最終的には6万余の将兵の命が奪われる結果となった。
 最初は四、五日で陥落させる筈だった第三軍司令官乃木希典中将は、大本営に苦戦の緊急連絡をした。現地、第三軍参謀長は砲兵科出身だったが簡単な物理学的知識が欠如していた。それを指摘したのは大本営技術審査部長の有坂成章少将で、彼は大砲や銃器の専門家ながら欧州の要塞の研究をし東京湾要塞や由良要塞の設計構築にも関与していたという。有坂は旅順の総攻撃の失敗を知り戦況を把握するとともに、欧州各国の要塞の資料から構造計算をしロシア軍の要塞のベトンの厚さを1mと推定し22センチの榴弾砲で十分破壊できるが万が一に備え、東京湾の観音崎砲台にあった28センチ榴弾砲を急遽旅順に送り、ようやく陥落させたという。
 この間に要した日数は150日にも及び、犠牲者の多い勝利だった。この戦争でコンクリートの堅牢さが認められたが、しかし小型要塞のトーチカを作ることに陸軍の上層部が難色を示していた。それは我国が外国に侵略された経験が無かったのと、昔からの拘わりで斬る刺すなどの武器を使う旧態依然とした肉弾戦に固執したからだと言われている。
 トーチカの重要性を知らしめたのは1914年に勃発した第一次世界大戦である。この時ドイツ軍は西部戦線に強大なトーチカ群を多数作りあげた。相手国が保有する大砲の威力を割り出し構造計算し、擁壁と天井の厚さを設定したという。トーチカは、その威力を発揮したが自国軍将兵の反乱と軍から離反する国民の前に、結局ドイツ軍は戦いに破れたのであった。その後もドイツ軍はトーチカの重要性を認め第二次世界大戦において占領していたフランスのノルマンディ海岸に築いたトーチカ群は有名であったが、これもまた英仏海峡特有の気候の前に連合軍の発見が遅れトーチカを捨てドイツ軍は敗走した。ドイツ軍には不運な出来事だった。
 第一次世界大戦後の1920年になり何故か日本陸軍は要塞の構築を中止すると共に要塞の整理を始めた。軍の上層部はトーチカなどの要塞は立て籠もるとの認識があり、攻撃こそ最大の防禦だと判断したからだというが、実態は経済的問題から作ることができなかった。
 だが1931年に勃発した満州事変から再び日本陸軍は海外の領地でトーチカを作り始めたという。特に大陸の前線ではトーチカを重要視するようになった。

防禦の構図

 大陸での好転しない戦況の中で軍部は最前線でトーチカを構築していた。トーチカも重火器などの兵器も戦争の度毎に発達していったと思われる。更に軍部は太平洋戦争勃発の翌年の1942年になり本土の太平洋沿岸の海岸線に多数のトーチカを構築し始めた。それ迄破竹の勢いで進攻をしていた日本軍が南方作戦に失敗し海軍の主力艦隊の大半を失い、陸軍もまた多方面で壊滅的な打撃を受けていた。
 さらに北方作戦で進攻したアリューシャン列島のアッツ島も1943年に玉砕し、本土も米軍の空襲を受けるなど危機が迫っていた。日本軍の戦略は根本から崩れていった。軍部がトーチカを太平洋沿岸に数多く構築したのは連合軍は必ず太平洋から攻めてくると信じたからだ。その予測は的中していた。勢いづいた連合軍は次々と我国の領地を攻略していた。
 また、アッツ島とキスカ島を奪還した米軍は、千島列島の太平洋岸伝いに南下の気配を見せていたという。米軍の北方部隊に神経を尖らせる日本軍部には北方戦線に派遣する艦船も戦闘機も無く防戦一方になっていた。そこで防禦のため1943年の夏からトーチカを太平洋沿岸の上陸が容易な砂浜に数多く作られた。
 戦争とは攻撃か防禦である。防禦とは敗北を意味するが自国内においては補給が容易という利点もあった。日本軍部は本土決戦を謳い文句に防禦に廻ったのである。だが戦況はますます不利になっていった。
 トーチカは北海道の胆振地区や道東地区でも数多く作られた。特に根室の桂木海岸やフレシマ海岸に多く作られ、十勝の厚内オコッペ海岸から大樹の旭浜などにも構築された。
 それでは何故オホーック沿岸にトーチカが少ないのかと疑問がわくが、これには1941年(昭和16年)4月13日に締結した日ソ中立条約が影響したと思われる。中立条約には相互の不可侵の条項がありソ連は攻めて来ないと軍部は考えていたようだ。もしも米軍の艦艇が、このオホーック海に進攻するならどの海域を通るのか日本軍部は検討したという。
 その結果、根室海峡は水深が浅く大型艦船の航行は不可能で、従って米軍の艦隊はキスカ島の基地から直接千島のエトロフ島に向かいウルップ島とエトロフ島の間のエトロフ海峡を通りオホーック海に入り、南下して知床岬を目指すと考えた。
 だが北方の米機動部隊はオホーツク海を目指すことは無かった。豊富な機動力を持つ米軍は南方海域から太平洋沿岸に上陸すれば北海道の内部はおろか、オホーック海側も日本海側にも背後から攻撃が出来たからだ。当時、北東海軍航空隊(美幌航空隊)の分遣隊はエトロフ島の蘂取とクナシリ島の留夜別で飛行場を建設して駐留するが、日本軍の飛行機は偵察用の練習機のみで、敵国と交戦できる戦闘機は無く守備力も弱かった。

網走の防禦

 軍部はその状況に危機感を持ち、1943年の年の暮れになり陸軍第七師団の通称『熊部隊』の師団工兵の指導で網走周辺にもトーチカが構築され始めた。構築は極秘裏に行なわれ住民は現場に近ずくことは許されなかった。敗戦を予感させる軍政下の出来事だった。当時、網走には第七師団に所属する桂朝彦少将を司令官とする北部第5242部隊の西村栄一隊長指揮下の第32警備隊(一個中隊程度)が駐屯していた。隊の本来の任務は陸軍船舶隊で沿岸の警備、木造の標準船と呼ばれた擬装船で北千島への物資補給と、ベニヤ板で作られた小型の特攻艇で戦う予定だつたが標的になる敵艦は現れなかった。そればかりかオホーック海に進入した米海軍の潜水艦によって、擬装船が次々と撃沈され船舶不足のため物資の補給は困難になったのである。また特攻艇はあっても戦う機会は無かった。従って兵隊は常呂から斜里までの沿岸警備と陸上工作に従事していたのであった。
 当時、網走では軍と徴用された民間人によって市街地に貯水池や横穴式防空壕、備蓄物資防空壕、掩蓋式防空壕など六ヶ所ほど作られたが場所は不明である。また、網走市史下巻の記録によるとポンモイの石山の上(知人岬)と藻琴昭和道路の入口付近や向陽ヶ丘に歩兵砲陣地が作られたと書かれている。さて資料不足のため、どのトーチカから作られたのか定かではない。
 現在までに台町二丁目の崖の中腹と、しおさい公園、帽子岩と二ツ岩、モヨロ貝塚と鱒浦、藻琴それに浜藻琴、と八ヶ所が確認されているが二ツ岩とモヨロのトーチカは崩壊し規模は確認出来ない状態にある。過去の調査でトーチカに特徴があることが分かった。それは監視口と銃眼口の位置である。台町2丁目の崖の中腹のトーチカの銃眼口は北東方向にあり眼下に見える『くじら浜』に上陸する敵兵を迎撃する目的だつただろうと推定される。だが当時の『くじら浜』一帯は知人岬から続く岩礁があり揚舟艇が着岸できる地形ではない。ただし網走川河口の白灯台の付け根付近には百米ほどの砂浜はあった。仮に米軍が上陸するとすれば、この砂浜くらいである。また帽子岩のトーチカの銃眼口は三方にあり、その方向は左側は『くじら浜』と正面は『網走川と市街地』右側は『モヨロと二つ岩』を指している。
 同じことが藻琴のトーチカと浜藻琴のトーチカの銃眼口にも言える。藻琴トーチカの銃眼口は北東方向の『藻琴川の河口と海岸』を狙う方向だ。だが台町にしても藻琴にしても海岸線までの距離を考えると重火器でも装備しなければ攻撃は不可能だ。だが、どのトーチカにも重機関銃を乗せる銃座は無かった。浜藻琴のトーチカの銃眼口は北北西方向を向き、やはり『藻琴川の河口と海岸』を視野にいれていた。

トーチカの用途

 監視台のある鱒浦と藻琴、浜藻琴の内、鱒浦の監視口は北東と東にあり浜藻琴のは北東と北西にあり視野は能取岬から知床半島までであるが藻琴のトーチカは東側にあった。その視線先は『知床岬』までの海上を監視できる構造だった。だが、あく迄も個人的推測の段階であり当時の軍部の考え方は分からない。いずれにせよ敗色濃厚となった戦時下では冷静に戦況判断をした将官が何人居ただろうか。
 調査の進んでいない鱒浦と台町の『しおさい公園』のトーチカは別として、台町と帽子岩それにモヨロと二つ岩、藻琴と浜藻琴のトーチカの目的は海上を監視し異変があれば本隊へ無電連絡する監視活動が業務で、海岸に敵前上陸する米軍の上陸揚舟艇と兵士を水際で挟み打ちにする攻撃は考えにくい。ただ軍隊だから兵士は武器は持っていた。銃眼口の大きさから推定すると使用できる武器は九六式軽機関銃と三八式歩兵銃程度だろうと思われる。ただし監視口からでも歩兵銃なら射撃は可能であっだ。
 トーチカの大きさからみて兵員の規模は分隊編成であったと予測する。指揮は下士官一名と通信兵が一名、監視兵が二人、攻撃兵が四人の八名程度と思われる。小規模な戦闘には対処できるが機動力のある米海兵隊を相手にしては自殺行為に等しいと思われる。
 今までの調査で考えられるトーチカの構造は無筋に近いコンクリートではないかと思われる。当時、我国では鉄類が極端に不足していた。それに鉄筋コンクリートでなくても側壁(外壁)を厚くし、隔壁(間仕切り壁)を多くすれば天井の重さにも充分耐えられる構造だ。先にも述べたが無筋コンクリートでも圧縮強度は強いという特性を活かしての構造物だった。型枠と支保工(天井の型枠を支える柱)は勿論、地元産の木材が使用され各トーチカとも支保工に使われた柱や板の残骸がみられた。コンクリートに使われた砕石は安山岩でポンモイの石山で採取されたものと思われる。砂も現地採取されたものらしい。
 現在でも海砂は脱塩するのに年数がかかるが非常事態の時だったから採取して直ぐに使用したのだろう。どのトーチカにもコンクリートの脆い部分が見受けられるのは塩害のためだと考えられる。だが半世紀を過ぎても堅牢なのは当時、師団長の割当証明書があれば軍事優先で、道内産のセメントを大量に使用できたのと現地採取の材料が容易に手に入ったためだったからではないかと思われる。
 トーチカの構築中、軍は一般人を現場周辺には近ずけなかった。当時、子供だった私は兵隊たちが台町の崖の中腹で何を作っているのか見てみたかったが、大人たちは絶対近ずくなと恐い顔をして言ったのを思い出す。作業は秘密裏に進められたが、やがて終戦を迎えトーチカの実戦使用の機会は無かったのが不幸中の幸いと言える。(つづく)

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